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樺太探検の間宮林蔵が世界地図に名を残した皮肉な理由

2018年11月21日 | 歴史

アジア大陸とサハリン(樺太)北部の間の海峡を間宮海峡というが、これは、間宮林蔵が1809年に樺太を探査した時に発見した海峡である。

 

江戸後期の北方探検家として名高い間宮林蔵は、1775年(異説あり)、茨城・常陸に生まれた。職人の子だったが、数学の才能があり、それが認められて上京、25歳の時には幕府に仕官する。

 

林蔵が幕府から樺太探検の命を受け、蝦夷地(えぞち)に派遣されるのは1808年。当時、樺太は大陸と陸続きと考えられていたが、その北部は未踏の地。当時、ロシアが北方から日本に侵入し始めている頃で、蝦夷地の調査は急務だったのである。

 

林蔵は、この困難極まる酷寒の北方探査を見事にやり抜く。大陸の半島と考えられていた樺太は、実は島であることを確認し、同時に樺太―大陸間の海峡を発見する快挙を成し遂げる。この間宮海峡は、シーボルトが著書『日本』で「マミヤの瀬戸」と紹介したことから、ヨーロッパで知られるようになった。

 

当時のヨーロッパで作られた世界地図にはMAMIYAと記され、世界地図に名を残した初めての日本人として記録されることになった。

 

林蔵は、世界地図に名を残したわけだが、実は日本地図とも深い関わりを残している。そのきっかけは、樺太探検の際に蝦夷地・箱館(現函館)で日本地図・伊能図の作成者、伊能忠敬との運命的ともいえる出会いがある。

 

林蔵は蝦夷で忠敬から測量の技術を学び、樺太探検に大いに役立てた。忠敬も蝦夷地の地図作成の際には林蔵の測量データを利用したと言われる。これ自体は互いの事業に理解と協力をし合うプロフェッショナル同士の美談。しかしこの地図を巡る交流が、もう一つの皮肉な運命をもたらした。

 

というのも1828年に起きるシーボルト事件に、林蔵も少なからず関わっているからだ。シーボルト事件は、シーボルトが帰国する際、日本に関する多くの美術工芸品に加え、伊能図も運び出そうとしたことに発端がある。

 

伊能図は幕府特命の門外不出の機密資料。この廉(かど)でシーボルトは国外追放。シーボルトに縁の深い高野長英ら洋学者も処分された。

 

シーボルトが手に入れた伊能図は、伊能図作成の助手を務めた幕府天文方・高橋景保が暦数書と交換したものだった。林蔵は忠敬との交流からこの事実を知っていたのである。

 

林蔵は悩んだ末に幕府に密告して出る。実は、林蔵は幕府の隠密としての顔も持っていたのだ。幕府の不利益になると思われることは未然に防ぐ立場にあったのである。しかし、結果的にこの林蔵の行為は世間から大きな非難を受けてしまう。林蔵はこれを機会に隠密に専念。歴史の表舞台から消えてしまう。

 

ところで、シーボルトもなかなかしぶとい人物で、再度伊能図を手に入れている。幕末期に再来日し、何らかの方法で伊能図の入手に成功する。その結果、著書『日本』で伊能図を紹介することができたわけである。

 

それにしても、林蔵自らが密告で苦境に陥れた当事者シーボルトに自分の名を世界に広められるとは、林蔵もあの世で歴史の大きな皮肉を知る思いだろう。世界地図と日本地図のどちらにもかかわった、実に数奇な人生を歩んだ間宮林蔵である。

 

---owari---

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