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わずか三十年で大教団に育て上げた蓮如のノウハウとは?

2020年01月17日 | 歴史
1998年、この年は浄土真宗(じょうどしんしゅう)中興の祖とされる蓮如上人(れんにょしょうにん)の五百回忌に当たる。浄土真宗はご存じのように、親鸞(しんらん)上人を宗祖とし、全国に信者を擁する巨大宗教である。

今でこそ、浄土真宗は日本を代表する宗派だが、1457年、蓮如が43歳で本願寺第八世を継いだ時は参詣する人も稀なごく貧乏な寺だった。

蓮如は28歳の時に結婚しており、その時点で7人の子があった。貧しい中で、法主にはなったものの、蓮如は相変わらずの貧窮生活をしいられ、その日の食べ物にもこと欠くありさま。衣類も、そでに絹を付けただけの紙衣(かみこ)であったという。

そんな蓮如が、本願寺をわずか三十年ほどで織田信長さえも恐れさせる日本一の大教団に育て上げたのだから、これはまさに奇跡だ。その発展の経過をざっとたどってみよう。

蓮如の若いころは、天台宗・延暦寺(えんりゃくじ)の全盛期。当時、京都・東山にあった本願寺も延暦寺の支配下にあり、自由に布教をすることもままならない八方塞がりの状況だった。

法主となった蓮如は、延暦寺との決別と本願寺独立を敢然と決意。寺に無理やり置かされていた天台宗の経典(きょうてん)や本尊(ほんぞん)を残らず燃やしてしまう。これには「貧乏風情が何という暴挙を」と、延暦寺が怒った。

1465(寛正6)年1月、延暦寺は荒法師の一団を本願寺に向かわせ、本堂を跡形もなく焼き払ってしまう。どうにか難を逃れ、琵琶湖西岸の町、堅田(かただ)にたどりつく蓮如一家。これが「寛正の法難」と呼ばれるものだ。

蓮如はしばらくこの堅田で布教を行った後、北陸へ活動の場を広げた。そして1471年、加賀との国境に近い越前吉崎(福井県金津町)に北陸布教の拠点を設ける。2年もすると、この吉崎は諸国の門徒が続々と参詣する浄土真宗の聖地となった。

浄土真宗があっと言う間にこれだけ広がったのは、蓮如の巧みな布教活動に負うところが大きい。蓮如は「講(こう)」という集まりを開き、集まった信徒が皆で声を出してお勤めするよう勤めた。

従来、一方的に僧がしゃべって終わりだったものが、人々が全員でお経を合唱することで会場には不思議な一体感が生まれた。

お勤めが終わった後で開かれる「おとき」も信徒の大きな楽しみだった。これは現代のホームパーティーのようなものだ。信徒らはそこで食事し酒を飲み、世間話に花を咲かせた。こうした講が各地で誕生し、時には講単位で吉崎への本山詣(もうで)を行った。

この時代は応仁の乱が起こり、武士に限らず、長年にわたって日本人全体が右と左に分かれて争った時代だった。そのため人々の心はすさみ放題にすさんでいた。

そうした混迷の時代に「仏のおかげで生かされている」という浄土真宗の報恩感謝の教えは利己主義に走ろうとする人々の心に、足元を見つめ直させるきっかけともなった。

このような時代背景に、蓮如のユニークな布教方法が結び付き、浄土真宗はまたたく間に大教団へと発展していったのである。

---owari---
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