(あらゆる人に仏性・神性がある)
この話は、「ダイヤモンドは、実際には、あなたが立っている場所の下、あなたの足元に眠っています。実は、あなたの家の庭のなかに、あなたの農園のなかに、ダイヤモンドの鉱床はあるのです」という話でもあります。
この話がどれほど上手(じょうず)な譬(たと)え話なのかは知りませんが、この話が受けた理由は、その普遍(ふへん)性にあります。多くの人に通じるものがあるのです。
「あらゆる人に仏性(ぶっしょう)・神性(しんせい)がある」「人間は仏の子、神の子だ」と言われますが、まさしく、そのとおりであり、人間は、みな、掘り下げれば、きちんと仏の性質や神の性質が出てきます。しかし、掘ることを途中(とちゅう)でやめてしまう人が多いのです。
人間は、自分自身に関して、前述した農夫と同じように、「こんな荒(あ)れ果てた土地からは何も取れない」と考えがちです。すなわち、「自分以外の人のなかには、才能や能力がある人もいるだろう。仏に愛される人も、神に愛される人もいるのだろう。
でも、自分は違う。自分は、生まれからして、こうであるし、ほかの人から、こんな扱(あつか)いを受けてきた。こんな経歴だし、こんな職歴だし、こんな収入だ。だから、自分は駄目なのだ。自分には、とてもではないけれども、大切は仕事、重要な仕事などできない」と思いがちなのです。
しかし、「実際は違いますよ」ということが、この話の基(もと)にはあるわけです。
この話が広がって、繰り返し語られたのは、「人間は仏の子、神の子である」という理論が正しいからです。本当は、誰(だれ)の足元にもダイヤモンドの鉱床が眠っているのです。
ただ、もう少し掘れば、それが出てくるのに、その前にあきらめてしまう人が、ほとんどなのです。
この話は、「人間は、『自分以外の人には、外部から何かチャンスが与(あた)えられるかもしれないけれども、自分には、そういうものは巡(めぐ)ってこない』というように考えがちである」ということを教えているのだと思います。――この章は終わりです。
---owari---
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