今日も伊勢雅臣さんの著書「世界が称賛する日本人が知らない日本」から転載します。
―――――
(古代文化と現代文明の不思議な共存)
「そう、新旧の不思議な共存、外国人が日本へ来て驚くのは、それですよ。近代技術の粋を集めた丸の内のビル街を、古風な祭の行列がしずしずと進むのを見て、たまげてしまう(笑)」
滞日四十余年、上智大学名誉教授トーマス・インモース氏はこう語る。これは西洋の文化人・知識人が日本でよく感じることらしい。イギリスの代表的な高級週刊誌エコノミストも、かつて、自衛隊のジェット戦闘機の前で、神官がお祓(はら)いをしている写真を掲載していた。欧米人から見れば、何ともユニークな光景として見えたに違いない。
長野オリンピック開会式では、ベートーベン第9の5大陸同時演奏と、信州の郷土色豊かなお祭りが披露された。最新の現代文明と古代からの民俗文化との共存には日本人ですら驚(おどろ)かされた。
国際常識では、古代からの習俗(しゅうぞく)・習慣(しゅうかん)をいまだに持つ国は、文明的・経済的には遅れた国であり、先進国とは、そういうものから脱却して「近代化」の進んだ国である、と考える。日本での古代文化と超先進文明との共存は、この国際常識を真っ向から否定するもので、まことにユニークな国柄だ。
(深い泉の国)
インモース氏は、我が国を「深い泉の国」と呼び、次のような詩をものされている。
深い泉
この国の過去の泉は深い。
太鼓と笛の音に酔いしれて
太古の神秘のうちに沈み込む。
測鉛(そくえん)を下ろし、時の深さを、わたし自身の深さを測る。
「太鼓や笛の音」といえば、長野オリンピックで、君が代が雅楽(ががく)として演奏された光景を思い浮かべればよいだろう。測鉛とは、縄の先に鉛を結びつけた水深を測る道具である。日本という泉の深さを測る、それはインモース氏の学問そのものだが、それを通じて、「わたし自身の深さを測る」といわれる。
西洋人であるインモース氏自身の心の奥底に潜(ひそ)む、太古の心情-それは同じ人類として西洋人にも共感しうるものらしい-を明らかにする、という事であろう。
日本のことについて質問された時にまったく答えられなくて困ったという人も少なくないだろう。日本のことについて知らないために、外国文化の理解が浅いレベルにとどまったり、見えるべきものが見えなくなる場合も多いのではないか。
まず自分自身のアイデンティティについて知らなければ、外国文化の事も深く共鳴できない。これは国際派日本人となるためのキーポイントである。
(祝日考)
今日3月21日は春分の日である。我が国には14日の祝日があるが、そのそれぞれが、歴史の過程を通じて生み出されてきたもので、その由来を探ることは、そのままこの「深い泉」の深さを測ることとなる。今回はいくつかの祝日を取り上げて、その由来をたどることで、「深い泉」とはどのようなものか、考えてみよう。
春分の日を中日として、前後7日間を彼岸会(ひがんえ)と称して、先祖供養を営む。皆さんの家族でもお墓参りに行かれる方がいるであろう。中日には昼夜が同じ長さとなり、太陽が真東から昇って、真西に沈む。真西に沈む太陽を拝んで、念仏を唱えると西方の彼岸、極楽浄土に行けると信じられていた。
彼岸の法要は、平安初期から朝廷で行われ、江戸時代には庶民の間に年中行事化したものである。我が国だけの「仏教行事」だそうで、仏教思想と古来からの太陽信仰が習合して生まれたものであろう。
「日本後記」大同元年(806)3月17日の記事に、自害せられた早良(さわら)親王(しんのう)(桓武天皇の皇太子であったが、延暦4年(785)廃(はい)せられ、ついで淡路国に遷(うつ)される途中に没)の為に諸国国分寺で、旧暦2、8月(現在の3月、9月)に「別して七日、金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)を読ましむ」という記事がある。
外国人に話をする機会があったら、9世紀の頃から続いている行事だとさりげなく言えば、それだけで「泉の深さ」が理解できるはずである。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます