(祝日に見る日本人の一生)
元日は、年の始めを祝う日であるが、中世の頃までは、大晦日(おおみそか)が先祖の霊、祖霊が帰って来る日であった。現代でも歳神(としがみ)様とか、正月様と呼ばれる祖霊は家の守護神であり、また豊作をもたらす穀霊(こくれい)でもあった。元日には、子孫の繁栄を見守る祖霊とともに新年を迎え、御節(おせち)料理をお供えする。人間が食べるのはそのお下がりなのである。
数え歳では、元日に家族揃って、一緒に年齢を加えるわけだが、男子は15歳頃、女子は13歳頃になると、祖霊とともに、成人となるのを祝う。ただ、旧暦の元日は新月で闇なので、望月(満月)の15日に元服(げんぷく)式を行った。これが「成人の日」の起源である。現在でも全国各地で成人式が行われるのは、この元服式の継承である。
5月5日は「子供の日」である。鯉のぼりを立て、菖蒲湯(しょうぶゆ)に入る。聖徳太子の時代の推古天皇19年(611)5月5日、野山で薬草を摘(つ)む「薬猟(くすりがり)」が行われた。香りの強い植物は邪気を攘(はら)うと信じられ、春から夏への季節の変わり目に心身の邪気を追い祓(はら)ったのである。「菖蒲」が「尚武」となり、武家の男子の無事なる成長を祈った。これが町人社会にも広がって、武家の幟(のぼり)にかわって出世魚の鯉のぼりが使われるようになった。
9月15日は「敬老の日」である。これは奈良時代の初めの養老の滝伝説に起源を持つ。美濃(みの)の国に薪(たきぎ)を売って、老父の好物の酒を求めていた親孝行の木こりがいた。ある時、石の苔(こけ)に足を滑らせて転倒して、偶然「酒の泉」を見つけた。これで老父に孝養をつくしたという。
この事をお聞きになった元正天皇は霊亀3年(717)9月に、その地に行幸(ぎょうこう)し、木こりを国守にとりたて、同年11月に養老と改元された。敬老の日が設定されたのは、昭和26年(当時は「年寄りの日」)であるが、9月中旬に地域のお年寄りを招待して「敬老会」を開くというのは、かなり前から行われていた。
(日本文化の個性)
こうして祝日の由来をたどるだけで、日本文化のいくつかの個性を見る事が出来る。
まず第一に「重層性」、長い日本の歴史の過程で、いろいろな経験や工夫が重層的に積み重なって今日の祝日ができている点である。フランス革命で暦まで新しく人為的に作り出してしまったような革命主義は、我が国の歴史には無縁であった。
皇室が文化の発信元となり、それが国民生活の中に自然に定着したというパターンが目立つ。「時は流れない、それは積み重なる」、ウィスキーの宣伝ではないが、この言葉は日本文化にそのまま当てはまる。
第二に「受容性」。インドの仏教思想や中国の儒教・道教の思想も、自然に取り入れられている。シナのように外国のものは頭から野蛮(やばん)だと見下すような中華思想、あるいは大戦中に一時見られた国粋主義も、我が国の文化伝統からは遠いものである。現代のクリスマスやバレンタイン・デイなども同じ受容性のあらわれである。
第三は「敬虔(けいけん)性」、神道や仏教などの素朴な宗教的心情に基づく点である。宗教と言っても、哲学的な理論武装をしたり、他宗教を攻撃するような「近代的」な面はなく、「祖霊を迎える」とか、「邪気を祓う」といったきわめて、つつましい、敬虔なものであった。
現代の我々も、お正月に初詣をするとなんとなく清々しい気持ちになるとか、お墓参りをすると、先祖が「草場の陰で」見ていてくれるような気がするのも、同じ敬虔な心情であろう。
重層性、受容性、敬虔性、この3つが、我が国の文化的個性を表すキーワードと言えよう。
これらは日本文化の個性を表すものであって、それが他国より優れているとか、劣っているなどと考える必要はまったくない。ただ自分自身の個性をよく理解し、発揮する、そうする事によって、他の文化の優れた個性をも、理解し、共感することができるのである。
「この国の過去の泉は深い」。その深い所では、他民族、他文化とも共感しうる、人類共通の心情にふれる事ができる。インモース氏の詩は、それを言っている。
---owari---
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