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平和と環境保全のモデル社会-江戸

2020年09月13日 | 日本
(過酷な近代世界システム)
21世紀の人類を脅かす二大危機は、核兵器と地球環境危機であろう。これに対し、250年間も平和を維持し、環境保全にも成功した社会が、今、注目を集めている。日本の江戸時代である。

核兵器も地球環境危機も、科学技術をもって諸大陸と自然を征服しようとしたヨーロッパ文明の鬼っ子である。そのヨーロッパ文明による「近代世界システム」がどれほど過酷なものであったか、明治大学の入江隆則教授は次のように描写する。

はやい話、スペイン人が現れる前には、中央アメリカの推定人口は7千万人から9千万人はいたとされているが、私がすでに書いたようにスペイン人の侵入のわずか一世紀後には、350万人に激減している。またこれも推定であるが、3千万人から6千万人に及ぶ黒人奴隷がアフリカからアメリカ大陸に連れ去られ、その三分の二が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれている。こんなことは「近代世界システム」が始まる以前の、どんな時代にも起こってはいない。

近代世界システムに徹底的に収奪された南北アメリカでは先住民による独立国家は存在していない。アフリカは先住民の独立国家こそ、かろうじてできたが、いまだに低開発段階にあるのは、固有の文化を破壊され、労働力を根こそぎ奪われて、回復不可能なほどの打撃を受けたからだという説がある。

(近代世界システムへの日本の反応)
これに対して、日本は近代世界システムに対して、独特な反応を示した。入江教授は、日本は、戦国時代と明治以降との2度、近代世界システムと遭遇しており、その2回が以下のように相似形をなしている、と説く。

第1次 戦国時代
 1543~ ポルトガル船が初めて日本に漂着、鉄砲伝来
     (44年間、南蛮文化を受け入れ)
 1587~ 豊臣秀吉のキリシタン禁制
     (46年間、ルソン、シャムなどの交易活発化、朝鮮の役)
 1633  鎖国令

第2次 明治以降
 1853~ ペリー来航、開国
     (41年間、西洋文明の受け入れ)
 1894~ 日清戦争
     (51年間、国際貿易と戦争で対外活動活発)
 1945  大東亜戦争敗北

明治以降の近代史は、近代世界システムに対しての2度目の挑戦だったのである。

(ヨーロッパより進んでいた技術革新)
近代世界システムとの最初の遭遇の時から、日本人は驚くべき適応能力を示した。1543年に種子島に最初の鉄砲が伝えられてから一年とたたぬうちに、日本人はその製造技術を修得し、十年もすると日本中の鉄砲鍛冶が大量に生産を始めた。

銃の改良自体もヨーロッパ以上のスピードで進み、螺旋状(らせんじょう)の主導バネと引き金調整装置を発達させ、銃身の破壊を防ぐ鉄鋼の製造にも成功している。鉄砲を使った戦法も世界一で、1573年、織田信長が武田の騎馬武者を駆逐した長篠の戦いで見せた3000人の鉄砲隊を三分隊に分けて、一斉射撃を繰り返す戦法は、基本的には第一次大戦まで通用するものだったという。

その12年後、フランスのアンリ4世が勝利を収めたクトラの戦いで25名の鉄砲隊を各槍隊の間に配置した程度に過ぎなかった事も見ても、鉄砲使用の規模と質において、当時の日本がいかに進んでいたかが分かる。ポルトガル、スペインも、日本の軍事力を見て侵略を諦(あきら)めざるをえなかったのである。

(銃を捨てた日本人)
しかし興味深いのは、軍事先進国となった日本が、ヨーロッパ勢力を追い出し、朝鮮の役に失敗すると、突如鎖国し、近代世界システムから「降りて」しまった事だ。そしてその象徴たる銃を捨て、刀剣の世界に戻ってしまう。

1607年、徳川幕府は鉄砲鍛冶の統制を開始した。鉄砲や火薬の産地を集中させ、鉄砲代官を置き、製造は幕府の許可制としたのである。生産量が抑えられ、世界最先端の技術も次第に衰退していく。

1855年にはアメリカの軍艦が、種子島の測量を行った。300年近く前に、ポルトガル人が銃を伝えた、まさにその場所である。艦長は次のように報告している。

まったく驚くほかなかったのは、武器についての住民の無知ぶりが例のないものであったことです。それは未開人特有の天真爛漫さと理想郷に住む人々の無邪気ぶりとを示すものでした。 

アメリカ人の見せた銃が、かつてこの島から日本全国に伝えられ、世界最大最先端の銃の生産国となっていったとは、この艦長も、また種子島の住民自身も、知らなかったのである。

銃の統制だけではない。幕府は様々な戦争予防の仕組みを作り上げ、250年間も戦争のない、人類史上希有な幸福な時代を実現した。その間、近代世界システムに参加した欧米諸国、そしてその餌食(えじき)となったアジア・アフリカ地域のたどった、戦争、飢饉(ききん)、疫病、革命、収奪といった悲惨な歴史と比較すれば、近代世界システムの限界を見破った当時の日本人の叡智が窺(うかが)われるのである。

(高度のリサイクル社会建設へ)
鉄砲を捨てた日本人は鎖国の中で停滞に甘んじてはいなかった。閉ざれた国土を最大限に生かした高度のリサイクル社会の建設に乗り出したのある。

江戸時代初期は、大開発時代で新田開発、用水整備などにより、わずか数十年の間にコメの生産量を3倍に増やしている。その結果、自然破壊が問題になると、幕府は「山川掟(1666)」を出して、大雨による土砂崩れ、河川の氾濫が起こらないよう、対策を進める。

さらに糞尿や煮炊きをした後の灰など、都市の廃棄物を農村の肥料にリサイクルするシステムを作り上げた。これによって同時代のヨーロッパの都市などとは、比較にならないほど、衛生的な都市生活が可能となった。

自然保護の面では、江戸の近隣に現在の東京23区以上の面積が、将軍の鷹狩りの場として設定され、そこでは無用の殺生を禁じられ、野生の鳥や動物の天国となった。

地方においても、百姓が漁業の権利を併せ持ち、森林を保全して、山から水を安定的に流し、海岸林としての「魚付き林」を維持した。森林資源と漁業資源をトータルシステムとして保全するエコロジー思想は、現在よりも進んだ面を持っている。

こうした優れた国土利用により、西洋人から見ても、驚くべき幸福な社会が実現された。たとえば、幕末に来日したアメリカの総領事タウンゼント・ハリスは、1858年に、次のような記録を残している。

「人々はみな清潔で、食料も十分にあり、幸福そうであった。これまでにみたどの国にもまさる簡素さと正直さの黄金時代をみる思いであった」

(世界は江戸化する)
江戸時代の日本は、北の蝦夷地方から、南の琉球列島まで、どんなに早い飛脚を飛ばしても、14日間を必要とした。ところがいまやジェット機で飛べば、地球の裏側まで半日しかかからない。つまり地球全体は、江戸時代の日本国全体よりも物理的にも心理的にもはるかに狭くなっているのだ。

近代世界システムは、地球は無限大だという前提のもとで、フロンティアに植民地を求め、地球資源を収奪した。しかし狭くなった地球で、その前提はもはや成り立たない。狭い地球上で核戦争が起きれば、人類全体が死滅し、またこれ以上の資源・エネルギーの使用は、地球環境そのものを破壊する。

そろそろ人類は、近代世界システムを卒業して、狭い地球の中で、肩寄せ合いつつ、限られた資源を有効に使って生きるすべを学ばなければならない。

そのためにも、近代世界システムから自発的に離脱して、平和で自然と共生する社会を作り上げた江戸日本が良き先例を示している。我々日本人はその先祖の優れた知恵を、世界に提供する使命を持っている。

---owari---
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