「人生を考えはじめている青年と共に考える。ということは、実に当然、国語教師のしなくてはならない事柄である」
(「生きた人間関係のなかに」)
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国語の時間には、つねに話し合いが行われなければならない。人間的な話し合いの行われるのは、国語の時間をおいて他にはもとめられないものなのである。
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たとえば、国語の時間に、なにかの論文を読む、という時でも、「人間的な話し合い」の中で行われなければならない。
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ある論文をよむ――よむというのは間接に人の話をきくということである。きいたら、ききっばなしのこともあろうが、多くの場合はそれに対して何かもっとききたいこともあろうし、自分からきいてもらいたいこともある。
ところが、相手の人はそこにいない。一方的にきかせられるだけである。そこで教師がその人の代役をつとめたらよい。教師はその論文の筆者になりかわって、みんなの質問にこたえ、その意見をきく、ここで会話が行われる。そうすれば、この一つの論文は生きた人間関係のなかにおかれたものとなる。
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「桑原先生は、いつも人間という生きた対象<生徒達も含めて>に素直に近づこうとされるようでした」「先生は生徒との一体感をとても大切にしていました」という姿勢は、このように授業を「生きた人間関係」の中で行おう、という考えからきたものであった。
(国語の授業で、文学作品を取り上げる理由)
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人間教育ということは、国語教育のになう重要な役割であるとすれば、文学作品はそのもっとも適当な教材である。多くはのぞむ必要はない。一つの作品、一人の作家を、ほんとうによく知りそれと親しむこと、それだけでもいいことである。
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ここで、国語の授業で文学作品を取り上げる理由が明かされる。文学作品をとりあげるのは、文学を学ぶためでなく、文学を通じて人間教育を行うためなのだ。文学そのものを学ぶのではないから、文学作品を広範に渉猟(しょうりょう:広くあちこちをわたり歩いて、さがし求めること)したり、文学史を系統的に学んだりする必要はない。
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ぼくは中学の教師をしていたとき、教科書に中勘助氏の『銀のさじ』の一部分がのっていたのを機会に岩波文庫を生徒全員に買ってもらって全部をよみとおしたことがある。・・・
・・・生徒も大変よろこんでくれたようである。とにかく全部よんだ上で、何かわからないところ、問題となるところを質問させると、みんなどんどんといろいろきいてくるのである。
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『世界が称賛する 日本の教育』では、灘校の「伝説の国語教師」橋本武氏が中勘助の名作『銀の匙(さじ)』を中学3年間かけて読み通すという授業を行って、大きな教育効果をあげている事例を紹介した。
橋本武氏と桑原先生はほぼ同時代に、よく似た国語教育を実践していたのである。東京の中学教師と神戸の中学教師とでは、互いの事も知らなかったろう。しかし、真剣に「国語教師たるの道」を求め続けた結果、両者は似たような国語教育の方法に行き着いた、という事だろう。
(「青年と共に考える」)
この方法では、生徒たちがまずは自分で、一人の作者なり、一個の文学作品に取り組んでいく、という姿勢が不可欠だ。
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・・・僕は、徒然草の一段(本で一頁か二頁くらい)を一時間位にらみつけて、自分の力でどの位正確に、どの位深く読みとることができるかためしてみる、そんな勉強をおすすめしたいのです。
そしてその後で参考書をよめば「なるほどそうか」とうなずくところがあるものです。自分にわからないところがわかる、ということが大切で、それなしに片っ端に参考書を見て全部わかったつもりでいる、ということが困るのです。
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これを桑原先生は、相撲の稽古にたとえて、こう説明している。
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相撲の稽古は自分よりも強い相手の胸をかりて、叩きつけられ、叩きつけられするということでなければ、稽古ではないでしょう。それと同じで参考書の力を借りて、いつも簡単に相手を負かしたつもりでいたのでは、自分の力は分らないし、いつまでたっても力はつきません。自分で相手にぶつかっていくことです。
教師や参考書はいわばコーチです。自分で努力したものにして始めてコーチの云うことがよく分って、自分のためになるのです。
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国語教師がコーチを務める高校生たちは自我のめざましい成長期にある。
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われわれはシェイクスピアについては、しろうとであるかも知れない。しかし、彼の一つの作品が提出している問題-それが人間の、あるいは人生の根本問題であればあるほど、もはや専門家も素人もあるはずはない。その問題について、ちょうど人間、もしくは人生を考えはじめている青年と共に考える。ということは、実に当然、国語教師のしなくてはならない事柄である。
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この「青年と共に考える」ということこそ、国語教師にしかできない事柄である。そしてこれこそが、「国語教師たるの道」の究極の目標であろう。一人でも多くの国語教師にこういう道を目指していただきたい。それこそが「人作り」の正道である。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
(「生きた人間関係のなかに」)
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国語の時間には、つねに話し合いが行われなければならない。人間的な話し合いの行われるのは、国語の時間をおいて他にはもとめられないものなのである。
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たとえば、国語の時間に、なにかの論文を読む、という時でも、「人間的な話し合い」の中で行われなければならない。
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ある論文をよむ――よむというのは間接に人の話をきくということである。きいたら、ききっばなしのこともあろうが、多くの場合はそれに対して何かもっとききたいこともあろうし、自分からきいてもらいたいこともある。
ところが、相手の人はそこにいない。一方的にきかせられるだけである。そこで教師がその人の代役をつとめたらよい。教師はその論文の筆者になりかわって、みんなの質問にこたえ、その意見をきく、ここで会話が行われる。そうすれば、この一つの論文は生きた人間関係のなかにおかれたものとなる。
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「桑原先生は、いつも人間という生きた対象<生徒達も含めて>に素直に近づこうとされるようでした」「先生は生徒との一体感をとても大切にしていました」という姿勢は、このように授業を「生きた人間関係」の中で行おう、という考えからきたものであった。
(国語の授業で、文学作品を取り上げる理由)
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人間教育ということは、国語教育のになう重要な役割であるとすれば、文学作品はそのもっとも適当な教材である。多くはのぞむ必要はない。一つの作品、一人の作家を、ほんとうによく知りそれと親しむこと、それだけでもいいことである。
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ここで、国語の授業で文学作品を取り上げる理由が明かされる。文学作品をとりあげるのは、文学を学ぶためでなく、文学を通じて人間教育を行うためなのだ。文学そのものを学ぶのではないから、文学作品を広範に渉猟(しょうりょう:広くあちこちをわたり歩いて、さがし求めること)したり、文学史を系統的に学んだりする必要はない。
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ぼくは中学の教師をしていたとき、教科書に中勘助氏の『銀のさじ』の一部分がのっていたのを機会に岩波文庫を生徒全員に買ってもらって全部をよみとおしたことがある。・・・
・・・生徒も大変よろこんでくれたようである。とにかく全部よんだ上で、何かわからないところ、問題となるところを質問させると、みんなどんどんといろいろきいてくるのである。
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『世界が称賛する 日本の教育』では、灘校の「伝説の国語教師」橋本武氏が中勘助の名作『銀の匙(さじ)』を中学3年間かけて読み通すという授業を行って、大きな教育効果をあげている事例を紹介した。
橋本武氏と桑原先生はほぼ同時代に、よく似た国語教育を実践していたのである。東京の中学教師と神戸の中学教師とでは、互いの事も知らなかったろう。しかし、真剣に「国語教師たるの道」を求め続けた結果、両者は似たような国語教育の方法に行き着いた、という事だろう。
(「青年と共に考える」)
この方法では、生徒たちがまずは自分で、一人の作者なり、一個の文学作品に取り組んでいく、という姿勢が不可欠だ。
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・・・僕は、徒然草の一段(本で一頁か二頁くらい)を一時間位にらみつけて、自分の力でどの位正確に、どの位深く読みとることができるかためしてみる、そんな勉強をおすすめしたいのです。
そしてその後で参考書をよめば「なるほどそうか」とうなずくところがあるものです。自分にわからないところがわかる、ということが大切で、それなしに片っ端に参考書を見て全部わかったつもりでいる、ということが困るのです。
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これを桑原先生は、相撲の稽古にたとえて、こう説明している。
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相撲の稽古は自分よりも強い相手の胸をかりて、叩きつけられ、叩きつけられするということでなければ、稽古ではないでしょう。それと同じで参考書の力を借りて、いつも簡単に相手を負かしたつもりでいたのでは、自分の力は分らないし、いつまでたっても力はつきません。自分で相手にぶつかっていくことです。
教師や参考書はいわばコーチです。自分で努力したものにして始めてコーチの云うことがよく分って、自分のためになるのです。
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国語教師がコーチを務める高校生たちは自我のめざましい成長期にある。
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われわれはシェイクスピアについては、しろうとであるかも知れない。しかし、彼の一つの作品が提出している問題-それが人間の、あるいは人生の根本問題であればあるほど、もはや専門家も素人もあるはずはない。その問題について、ちょうど人間、もしくは人生を考えはじめている青年と共に考える。ということは、実に当然、国語教師のしなくてはならない事柄である。
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この「青年と共に考える」ということこそ、国語教師にしかできない事柄である。そしてこれこそが、「国語教師たるの道」の究極の目標であろう。一人でも多くの国語教師にこういう道を目指していただきたい。それこそが「人作り」の正道である。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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