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神代の時代の天皇たちは実在の人物(後編)

2020年07月26日 | 日本
(神託によって「三韓征伐」を行った神功皇后)
それから、「*神功皇后(じんぐうこうごう)が卑弥呼(ひみこ)であり、さらには天照大神(あまてらすおおみかみ)である」というような説もあります。そこには、「歴史をできるだけ短くしたい。浅くしたい」という考え方が明らかに出ていますし、基本的に、「神話の時代は古い」ということを意味していると思います。

神功皇后は、もともと仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后です。当時、いちおう大和朝廷ができていたのですが、九州の熊襲(くまそ)に反乱が起きたので、仲哀天皇と神功皇后はそれを平定するために軍を出しました。しかし、そこへ行く途中、神功皇后が、突如(とつじょ)、神がかってきたのです。

そのとき、*武内宿禰(たけうちのすくね)という者が審神者(さにわ:人に降りた神を判定する者)をして、「神がかってきた」と言っています。この人は不思議な人なのですが、大臣です。「五代ぐらいの天皇に仕えている」という怪(あや)しげな人なのです。

そして、この武内宿禰が仲哀天皇に対して、「神功皇后に神がかってきて、『熊襲を征伐(せいばつ)に行くのをやめて、新羅(しらぎ)のほうへ行きなさい』と言っているので、そちらのほうに行きましょうか」と訊(き)いたのですが、仲哀天皇は、「そんなことはない。熊襲を退治に行く予定だったので、当初の予定どおりにする。新羅のほうには行かないように」と言ったのです。すると、天皇のほうに神罰(しんばつ)が当たって、コロッと死んでしまったそうです。

その後、神功皇后は神託(しんたく)どおりに、「三韓(さんかん)征伐」を行っています。「征伐」と言うと、朝鮮半島の人は怒(おこ)るでしょうが、当時の言葉ですので、許してほしいと思います。

その時代、朝鮮半島は三つに分かれていたと思いますが、神功皇后はそちらのほうに行って勇猛果敢(ゆうもうかかん)に戦っています。そして、戦いの帰路で出産した子が応神(おうじん)天皇です。

このようなことが、日本の歴史書にはかなり具体的に出ていますので、神話とは言えないと私は思います。

また、「神の言葉には、それだけの重みがあった」ということです。「天皇であっても、神の言葉を降ろして語ったものについて違う解釈(かいしゃく)をしようとしたら、その場で死んでしまった」という話が遺っているわけです。

要するに、「神の言葉、『神の詔(みことのり)』とは、天皇よりも大事なものである」ということを知らなければならないと思います。


*神功皇后(3~4世紀頃):日本の第14代天皇・仲哀天皇妃で、応神天皇の母。神託に従って身重(みおも)の体で半島に進出し、新羅を征服、百済(くだら)と高句麗(こうくり)もこれに従った(三韓征伐)。帰国後、応神天皇を出産。69年間摂政(せっしょう)を務め、100歳まで生きたとも伝えられている。

*武内宿禰:第8代・孝元(こうげん)天皇の曽孫(ひまご)。景行(けいこう)・成務(せいむ)・仲哀・応神・仁徳(にんとく)の5代にわたる天皇の大臣として仕え、神功皇后を助けて新羅出兵などに功績をあげ、300歳まで生きたなど、数々の伝説的な話が遺っている。

---owari---
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