日本は江戸時代が始まる以前から旅行の盛んな国であった。日本に最初の宿屋が登場するのは鎌倉時代にまで遡る。東大寺の前にできた木賃宿がその最初と言われる。そのころからすでに、都市と農村を行き交う行商人や芸人、伝道・巡礼者など、旅を生業とする人々がいた。
だが、広く庶民層にまで旅行が広まるのは、江戸時代に入ってから。17世紀末に日本を訪れたドイツ人医者は、長崎から江戸に旅したとき、街道、宿泊施設が整備され、道中おびただしい旅人が往来することにひどく感心したという。当時のヨーロッパとはかなり事情が異なっていたようだ。
ご存知のとおり、江戸幕府は五街道をはじめ、幹線道路の整備に熱心に取り組んでいる。それというのも、徳川家康が江戸に入城したとき、江戸は百戸ばかりの民家がある荒廃した草原台地でしかなかったからだ。
消費物資は大阪から運ばざるをえず、その他、参勤交代、将軍の上洛、日光参拝、朝鮮通信使の通行などを円滑にするために、陸海の交通整備が必要だったのである。
家康は開幕に先駆けた1601年には、すでに東海道に五十三次の宿場を置く駅伝制度を設けている。こうしたハード面の整備が全国隅々にまで広げられ、自然と往来する人々が増えていった。
幕府は街道の治安警備にも力を入れている。道中奉行を置き、旅行者の安全を守った。また、街道には一里ごとに一里塚を設け、進行状況がわかる案内板も設置していた。道中保全は相当に高度だったといえる。
基本的には武士の参勤交代など公用を目的に整備された街道だが、江戸も中期になると、利用者はむしろ庶民層のほうが多くなる。各宿場で旅籠が急増するのもこのころで、宿場では互いにサービス合戦を展開し、客の奪い合いも演じられたという。
またこの時代になると、旅行関係の出版物もやたらと増えてくる。道中記は元禄年間(1688~1704年)に早くも登場する。また旅の心得を列挙した「旅行用心集」や名所、名跡を解説した『名所図会』も盛んに刊行された。
とくに京都の神社仏閣を詳しく案内した『都名所図会』は、製本が追いつかないほどのベストセラーとなっている。京都旅行は当時も人気の観光コースだったのだ。
これら江戸中期に見られる現象は、世界的には特異なものだったといえる。とくに個人的な旅でも安全に行い得た治安環境は、比類をみない。
このように江戸時代は、すでに広い範囲で旅行が楽しまれていた旅行天国だったのである。
---owari---
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