諸宗教の間の分類や宗教戦争に慣れっこになった西洋人は、日本を知って、そこでは一人の人間が同時に神道と仏教の信徒たりうると聞いて、まず仰天の感情を隠しえないでしょう。これを見て、西洋人ウォッチャーの日本人なら、日本的現実なるものが多分に伝達不可能と心得ていますから、「いや、神道は宗教じゃありませんから」などと慰めてかかるかもしれません。
そうは聞いても、西洋人のほうでは、そのままに信じることはできないでしょう。衣冠束帯を身につけた神主や神聖美の極みたる祭りを見たならば。ましてや白い小袖(白衣)に朱色の緋袴(ひばかま)をまとった巫女の手振り厳かな神楽舞いでも目にしたならば。
結婚は神式、葬式は仏式などと聞いたなら、彼は驚いて、いよいよでんぐりかえるかもしれません。
そもそも、お寺の境内に鳥居が立ったり、菩薩が神になったりという奇天烈さをどう説明すべきか。つまり、真理は不動ならず、*群盲の象をなでるがごとしと、相手は変な納得をするほかありません。要するに、皆さんにとって当たり前なことが、海の向こう側に生まれた者にとっては、どんなに場違いかということになるだけなのです。
*群盲の象・・・数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。
我々西洋人の精神構造は「対立」に基づき、あなたがた日本人の精神構造は「和合」に基づいています。願わくば、この特異性を保持せられんことを!けだし、破壊せずに統合する能力は、セクト主義や原理主義が猖獗(しょうけつ:悪い事がはびこること)をきわめつつある現代において、絶対必要不可欠なる特質だからであります。
この特質あればこそ、日本人は他の諸価値を拒否することなく自国文化の天分を保持する柔軟さを身につけていられるのです。他の諸価値も、それぞれの次元において存在理由があるのだ、と。しかし、これとは反対に、イスラム原理主義においても、先進諸国の唯物主義においても、自分と異質の思想はどこまでも排斥しようとするばかりなのです。
では、排斥なく、ただあつめるのみといった日本人のお家芸はどこからくるのかといえば、これこそ神道からくるものにほかなりません。神道とは、普遍的世界の広がりの浄化をもとめての、ドグマ(教義)なき「信」だからであります。
日本人のそのような才は、同時にまた、仏教からも来ています。釈迦は、ヒンズー教の神々を追放したりはしませんでした。分離は後世の出来事にすぎません。釈迦の教えは万人のための解脱道ということです。たとえば、ビルマで土着の聖霊「ナット」と仏陀の信心がうまく融けあっているのも、そのためです。
室内に置かれた仏像の位置が、さまざまなナット像よりも高い位置を占めなければならないということはありますが、同様の共存はチベットでも見られるところで、その「金剛乗」と呼ばれる真言宗は、民間信仰たる「ボン教」由来の慣行と一体化しているのです。
中国人の信仰形態はといえば、これはどうして、したたかなものです。それぞれの発祥地によって柵を設けてしまっているのですから。
では分類好きの我ら西洋人は、どうでしょうか。殊勝にも彼らが、西洋文化の本流たるキリスト教についてとっくりと打ち眺めてみようとするならば、何よりも次のことを無視することは許されますまい。その起源において、キリスト教は、セム族的背景と、ギリシャの思弁的かつ神秘的形成と、ローマ的組織化と、この三つの混合から成り立っていた事実を。
隔壁は後代のもので、権力掌握に汲々たるキリスト教会によって建てられたものにすぎません。いったい、「純粋」な要素とは何でしょうか。幻想の産物にすぎません。この純粋性なるものが、たとえば「種族」に適応されて、目を覆うばかりの抹殺を引き起こしていった事実を、よもや忘れるわけにいきますまい。
それと同じく、西洋人、あるいはその兄弟が何世紀も前から、宗教的なものとそうではないものとを区別することを慣わしとしてきました。日常生活の所作を儀式化するというところが、私ども紅毛人にとってはひどく奇妙なものであると申さねばなりますまい。日常喫飯として誰もがやっていることと、茶の宗匠がさもさもらしくやることの間に、いったい何の違いがあるのか、と。
それは精神の「張り」なのです。
そして、それの感知は、まさに、きわめて特異な感受性のフォルムによってしかもたらされえないです。心の奥深い調和を表す身ぶりと、単なる習慣の身ぶりとの間の差は、実は紙一重にすぎません。が、この「違い」が、日本の儀式芸術の本質そのものなのです。
茶碗一個、花一輪、漢字ひとつなどとのかかわりが、システム化された宗教組織に頼ることなく日常生活を昇華させている秘訣なのです。私ども西洋人にとっての「どっちつかず」の態度が、皆さんにとっては生活の美と神秘との関係であり、しかもドグマをとおしてそれを築きあげる必要がないのです。
何という力でありましょうか!
現代人が、自分自身と息づまる不安との差し向かいから解放されるのに、またとないこの範例を必要としていること、さらさら疑う余地はありません。
---owari---
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