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生涯現役の人・伊能忠敬に学ぶ

2017年01月23日 | 人生

「第二の人生」の生き方で、参考になるような人物としては、伊能忠敬という人が挙げられます。この人は、「全国を歩いて測量し、日本地図(大日本沿海輿地全図)をつくった人物」として有名です。忠敬がつくった地図は、現在の国土省が近代的測量機を利用して作成した地図とほとんど同じと言っていい正確さだというのです。

 

伊能忠敬は、測量の仕事をするにあたり、数え年で五十一歳のときに勉強を開始しました。その仕事をするためには、数学や測量術、天文学などを学ばなければなりません。そこで、自分よりもはるかに年下の先生について勉強したのです。

 

当時は、平均寿命が四十歳ぐらいだった時代です。そのような時代に、忠敬は、五十一歳にして、自分よりずっと年下の先生に入門し、天文学や測量術、数学的な計算などを勉強したわけです。そのことに対し、まわりの人はあきれ返っていたようです。

 

さらに、忠敬が日本全国の測量を開始したのは五十六歳のときです。七十二歳までの二十年近くのあいだに全国をくまなく歩いて、日本地図を作成したのです。

 

当時はすべて歩いて測定していったわけですが、彼はどのようにして距離を測ったのでしょうか。実は、恐るべきことではありますが、自分の歩数によって距離を計算していたのです。

 

意外なことに、巻尺やものさしのような道具だけでは正確に距離が測れないそうです。道路がでこぼこしていたり、山が傾斜していたりと、さまざまな凹凸があるため、器具で測ることができません。

 

しかし、自分の歩幅が決まっていれば、経験上、何歩歩いたかによって、ビシッと距離を出すことができるわけです。このようにして、まず、距離を出し、次に、三角測量をすることによって、広さを算出していったのです。 

 

忠敬が日本全国を歩いて測量する過程では、困難なことも数多く起きています。

たとえば、測量の途中で、忠敬は五回ほど病気を経験しています。特に、山陰地方を測量したときには、死にかけたほどの大きな病気になりました。

 

しかし、そのようなことは言い訳にせず、自分の志しを成し遂げたのです。平均寿命が四十歳だった時代に、五十六歳から測量を始め、日本地図づくりの仕事を成し遂げたことは、本当に大したものです。

 

また、忠敬が、いよいよ、「全国行脚に出よう」ときめたとき、“不吉な前兆”が三つも起きたという話が伝わっています。これは、後世の人がかなり大げさにつくった噂・伝説のたぐいではないかと想像しますが、具体的には、次のようなお話です。

 

一つ目は、「忠敬が旅に出る前、自宅の梁に巣をつくっていたツバメの子が落ちて死んだ」という話です。それを見た身内は、「『ツバメの子が地面に落ちて死ぬ』とは珍しい。これは凶兆だ。きっと、『行ってはいけない』という意味だろう」と言って、全員が忠敬の出発を止めようとしました。

 

しかし、忠敬は、「ツバメの子が落ちるぐらいのことは、よくあることさ。たまたま落ちただけだ」と言って無視したのです。その次は、「忠敬が家を出ようとしたとき、わらじのひもがプツッと切れた」という話です。これが二つ目の凶兆です。

 

「これは、やはり。『行ってはいけない』という神様のご意思だ。だから、やめたほうがよい」と家族は忠敬を止めました。しかし、忠敬は、「わらじは鉄でできているわけではないのだから、ひもが切れるぐらい、当たり前のことだ。ひもが切れても、すげかえれば、それで終わりだ」と言って気にせず、出発したのです。

 

そして、三つ目は、「忠敬が家を出たあと、家業の酒桶が破裂した」という話です。忠敬の家は酒造業などを営んでいましたが、その酒桶が、突然、バーンと破裂したのです。木製の酒桶の場合、膨張して箍(たが)がはずれ、破裂することが、まれにあるようです。

 

そこで、家の者が忠敬を追いかけ、「これは。いよいよ『行くな』という天の意思表示に違いない。だから、絶対に行ってはいけない」と止めました。しかし、忠敬は、「酒桶の破裂など、ときどきあることではないか」と言って出かけていったのです。

 

このように、「三つの凶兆をふりほどいて出発した」という話だけ聞くと、伊能忠敬は、迷信など信じない唯物論者のようにも思えますが、実際の忠敬自身は非常に信仰心の篤い人だったそうなので、これは、後世の人がかなり誇張してつくった話なのだろうと思います。要するに、「伊能忠敬の仕事には、それほど困難があった」ということを表現しているのでしょう。

 

人生の平均寿命が四十歳だった時代に、「五十六歳で全国測量に出るなどということは、常軌を逸しているし、途中で死ぬことは、ほぼ間違いない」と、九十九パーセントの人は思ったでしょう。また、家族が止めるのも当然であり、そういうことも考えた上での伝承だと思われます。

 

ただ、これは、やはり、すごいことです。現在、日本人の平均寿命は、男性八十・八歳、女性八十七・一歳ですが、その中間をとると八十四歳前後でしょうか。

 

伊能忠敬が勉強を始めた五十一歳という年齢は、当時の平均寿命である四十歳の十一年後になりますので、現代で言えば、九十四歳で天文学や測量の勉強を始め、その五年後の九十九歳で全国測量に出て、百二十歳近くまでに日本地図を完成させたことになります。現代に置きかえると、その困難度が分かります。

 

もし、九十四歳から勉強を始め、九十九歳から全国測量に出なければならないとすれば、一般的には、途中で“のたれ死に”しても、無理はありません。誰であっても、先ほど述べたような「三つの凶兆が出ている」などと言いたくなります。しかし、それを成し遂げた人が現実にいたわけです。

 

しかも、伝記を読むかぎり、忠敬は、幼いころから体が弱かったらしいのです。そのため、まわりの人からは、「あなたは、子どものころから体が弱く、病気がちだった。そういう軟弱な体なのだから、測量の仕事は無理だ」と、全国行脚を止めるように説得されました。そのように、実際に病弱であることが多かったのです。そういう人が、日本初の大地図をつくり上げたわけです。

 

日本人の素晴らしいところは、幕府から頼まれたわけでもなく、お金儲けのために行ったのではないのです。家族から反対されても、死を覚悟しても、何かに駆り立てられたように、自分の意思を貫いて偉業を成し遂げたことが立派なのです。

 

また、この事実は、年配の方にとって、見逃せないエピソードです。すなわち、「人間は、年齢によって、能力が止まってしまうわけでもないし、行動力がなくなってしまうわけでもない」ということです。

 

忠敬の仕事を現代に年齢に置きかえると、「百歳で仕事を始め、百二十歳で完成する」ということになります。これは、かなり厳しいものですが、そうなると、「百二十歳歳まで生きる」という目標が出てきます。

 

「生物学的に見て、人間は、本来、百二十歳まで生きられるようにできている」という説が強いのですが、普通は、その前に“自己都合”で亡くなるようです。それは、先ほど述べたように、「自分は、仕事もないし、病気だし、お邪魔だし、早く死ななくてはならない」といった否定的な思いが出てきて、“死に急ぐ人”が多いからです。

 

したがって、「年を取ってから打ち込めるもの」をつくり出すか、それを見つけることです。要するに、何か打ち込んだり、熱中したり、夢中になったりできるようなものを持つことが大事なのです。

 

また、「新しい物事に関心を持つこと」も大切です。

 

もちろん、時代は変わっていきますので、「若い人がしていることに関心を持て」と言われても、なかなか持てるものではないでしょうし、若い人とまったく同じことをする必要はありません。

 

ただ、いままでの人生のなかで、「かつては関心を持っていたが、結局、やりそこねた」というようなものは数多くあるはずです。そこで、「ああ、あれをやりそこねていたな」というものを思い出し、もう一度、それに取り組んでみればよいのです。

 

---owari---

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3 コメント

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小さなことですが (頭の中にあることを)
2017-02-05 19:57:44
たったの1日を切り取ってみても、目標のある一日と、だらだらと過ごす1日。
気持ちが違いますし、その人の表情も全く違うものになりますね。
気持ちを入れて過ごして生きたいと強くかんじます。
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こんにちは (“このゆびと~まれ!”です)
2017-02-06 10:41:25
「頭の中にあることを」さんへ

ブログをお読みいただき、お礼申し上げます。
度々、格別なるコメントをお寄せくださいまして
本望でございます。有難うございました。
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勇気が出ました。 (グミちゃん)
2017-08-16 23:34:02
有り難う御座います。私に勇気を与えて下さりました。
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