(成功には、「頭のよさ」だけではなく、「志」が大きく影響する)
世の中で活躍した人を、「頭のよい人であった」と言うことは可能ですが、それは結果論だと思います。結果的に影響力が大きければ、「頭がよい人だったのだろう」と推定され、それを誰も疑いませんが、同時代には、同じように頭のよい人はたくさんいたと思うのです。
明治時代にも洋行(ようこう)帰りの人は数多くいたわけですし、英語やドイツ語など他の国の言語を、実際に聞けたり話せたり読めたりした人はいたはずです。それにもかかわらず、国際的に活躍した人となるとその数は急激に減ります。
現在も、国際社会で働いている人は大勢いますが、「世界に通用する」というレベルまで行く人となると、見つけるのが本当に難しくなります。
そういう意味で、単に、「学力がある」「頭がよい」という問題だけではないことを、知っておいたほうがよいでしょう。「その人が目指しているもの、すなわち、その人の志(こころざし)が大きく影響する」と言えると思います。
英語からは話題が少し離れますが、惑星探査機「はやぶさ」が、小惑星イトカワの鉱物を採り、2010年に地球に帰ってきました。
小惑星イトカワの名前の由来は、日本のロケット博士と言われた故・糸川秀夫博士です。私が若いころには糸川博士はまだ健在で、著書も出していました。
糸川博士は、第二次大戦のときに活躍した戦闘機「隼」の設計に若くしてかかわった人であり、客観的に見て非常に優秀な人であると思います。
ただ、本人の書いた『独創力』という本を読んでみると、日本のロケット学の草分けである糸川博士であっても、次のようなことを書いているのです。
「評論家の草柳大蔵さんは、私のことを、『まれに見る秀才』と書いてくださっているけれども、私自身は、そうは思っていない。
私は、中学受験の際、第一志望と第二志望に落ち、第三志望に、やっと入った。また、旧制高校の受験では四回目に受かった。
大学入試の際に、『今、東大でいちばん難しい学科は、どこだ』と訊いたら、『工学部の航空学科が最も難しいだろう』と言われたので、頑張って勉強し、そこに入ったことは入ったけれども、中学、高校と、受験で何度も落ちているので、自分を決して秀才とは思っていない」
そして、糸川博士は、若いころに「頭がよい」と言われても、その後、成功しなかった、二人の人物の例を挙げています。
「中学時代の同級生に、天才的な暗記力の持ち主がいた。毎日、英語の辞書を二枚破って学校に持ってきては、合計四ページ分の英単語をすべて丸暗記していた。そして、下校するときには、それを丸め、くずかごにポイッと投げ捨てていた。それがすごくかっこよかったが、私には、毎日、四ページずつ英語の辞書を暗記するほどの能力はなかった。
その人は、『天才だ』と思われていたし、五年生の旧制中学を四年で修了し、当時の旧制一高、のちの東大教養学部に入ったので、確かに天才だったと思うけれども、その後どうなったか、まったく分からない。私よりずっと賢いと思えたのに、消えてしまった。
もう一人は、糸川博士が大学に入ってから知り合った人です。当時の東大工学部航空学科は、入るのがなかなか難しかったらしく、今の理Ⅲ(医学部)並みか、もっと難しかったかもしれませんが、次のような人がいたのだそうです。
「航空学科には、十年ぐらい浪人して入る人もよくいて、新入生の平均年齢が三十歳を超えたときもあったぐらいなのに、そこに十八歳で入った人がいた。その人は周りから『天才だ』と言われていたし、確かに頭はよいのだろうと私も思っていた。
当時、学生はGペン(羽根ペン)をインク瓶に浸けてノートを取っていたが、たまたま、その人と私の席が隣になったとき、私はインク瓶を忘れてきていたので、インクを貸してもらったところ、『これは倍にして返してもらうからな』と言われた、『冗談かな』と思ったが、その人は、その後、私のインク瓶のインクで、ずっとノートを取り続けた。
『十八歳で東大に入ったことは偉いけれども、この人はケチで奇人・変人だな』と思っていたら、その後、どこかに就職し仕事をしているという話を聞くこともなく、その人は消えてしまった」
そして、糸川博士は、「そういう二人の例を私は知っているので、若いころに頭がよいことが成功の条件だとは、まったく思わない」ということを、正直に書いていました。
さらに、「私自身は、大学受験以降は努力したけれども、中学も高校も受験で失敗しているので、最高に頭脳がよかったわけではない。若いうちに隼戦闘機をつくり、のちにはロケット博士として有名になったので、傍からは、頭がよいと見られるし、客観的にはそうだろうとも思うけれども、極上の頭だったわけではないのだ」ということも書いていたのです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます