「経済的な問題」での正義論を考えてみましょう。
昨年、日本でもよく取り上げられていたトマ・ピケティ(フランスの経済学者)はマルクスの『資本論』の現代版のような本(『21世紀の資本』)を書き、「累進課税を強化し、相続税をガッポリ取って、それで富をならせば、世界がよくなる」というような考え方を出していますが、これは、マルクスが『共産党宣言』のなかで言っていることと、まったく同じです。
ただ、これについても、「よくよく考えないと問題がある」ということを知っておいてほしいのです。
簡単に説明しましょう。
2015年1月の大相撲初場所で横綱の白鵬関が優勝し、単独で最多の優勝回数を記録しました。
「一人で三十三回も優勝する」ということについては、「『結果平等』から見たら不公平で、非常にけしからんことだ」という考え方はあると思います。
例えば、「一人で三十三回も優勝する必要はない。一回だけでよい。一回優勝した人には、もう優勝する権利はなくて、次のときには二番目の人が優勝するようにし、順番に優勝していけば、三十三人、優勝者が出るではないか。これが平等ではないか」などと言う人もいるかもしれません。
「結果平等」の考え方とは、こういうことなのです。
しかし、その世界は「何かがおかしい」ということは、お分かりになるはずです。「優勝した」と胸を張れる人が三十三人も出てくるようにしたら、人類に対して善を施したように見えますが、何かがおかしいのです。
何がおかしいかというと、「人の努力や精進、多くの人々を喜ばせたことなどを公平に判定していない」ということです。それが、やはりおかしいわけです。
例えば、「イチローはヒットを打ちすぎだ。何本以上は打つべきではない」と規制をかけたら、やはり、何かがおかしいのです。あるいは、「ほかの人の取り分が減るから、イチローの給料の一部を二軍の人にばらまくべきだ」などという考え方も同様です。
生活保護的に、多少、そういうことをやってもよいとは思うのですが、全部がそういう考え方になったら、野球も相撲も面白くなくなります。
また、それ以外に、商売の世界でも、実際上、しのぎを削るような戦いをしています。智慧を絞り、汗を流しているわけです。
したがって、「チャンスの平等」があるのは非常に大事なことであり、これは法的にも保護されなくてはいけないのです。
結果においては、ある程度、差は出るので、最低ラインのところに対しては、一生懸命、護らなくてはいけません。しかし、ある程度、開きが生じることについては、それを受け止め,「祝福の心」を持たないと、総合的な発展にはならないわけです。そのことは知っておいたほうがよいのです。そうでないと、やはり間違いが起きるのではないかと思います。
世の中には、二十歳ぐらいで二億六千万円も年収のある女優がいたりします。それに対して、「二十歳で二億六千万円ももらうとは、まことにけしからんから、一千万円に抑えて、あとはばらまくべきだ」という考えもあろうかとは思います。
しかし、それだけのお金をもらえるようになるのは、やはり大変なことで、ものすごい競争のなかで、多くの人に評価され、勝ち上がってきているわけです。そういう夢があるから、多くの人が女優やタレントを目指していくことも事実です。
「白鵬関はモンゴル人だから、優勝させない」ということなら、これは、やはり差別であり、平等ではないので、よいことではありません。「十五勝したけれども、モンゴル人なので、十五勝のなかから五勝分だけマイナスを入れる」というようなハンディをつけたら、これも、おかしなことです。
昔、ハワイ出身の小錦関が、よい成績なのに横綱になれなかったとき、アメリカの「ニューヨーク・タイムズ」などに、「小錦が横綱になれないのは人種差別のせいだ」という記事が載ったことがありますが、そういう記事が出た翌場所の成績が不振だったため、横綱昇進の話が消えてしまったことがありました。
しかし、同じくハワイ出身の曙(あけぼの)は横綱になりましたし、白鵬関もモンゴル出身だからといって、別に差別はされていません。「チャンスの平等」とは、このことです。モンゴル人であっても、優勝すれば、きちんと横綱として扱われています。
もちろん、結果については、やはり差が出ます。それはどうしても出るのです。しかし、優勝する人を讃えなければ、全体に面白くなりませんし、相撲自体がなくなってしまいます。
この両方をよく見てあげなくてはいけないのです。「それらの兼ね合いのなかに発展の姿はあるのだ」ということを知っていることが必要です。調整の原理は働かなくてはいけませんが、全部をベタッとならせば済むかというと、そんなことではないのです。
白鵬関は、勝つと賞金の袋をたくさんもらっていますが、彼は、あの袋を、支度部屋に帰ったあと、太刀持ちなど、自分の周りにいる人たちに配っています。彼の周りには、力水を口に含ませたり、まわしを着けたり、風呂で背中を流したりしている人たちが何人もいるのですが、そういう人たちに配っているのです。
これは、「騎士道精神」です。横綱として、たくさん賞金をもらった分を、きちんと分配しているのです。彼が、「この人は、よくやってくれた」と思う人に、感謝の気持ちとして与える分には、それは、全然、悪いことではありません。しかし、その賞金を強制的に全部取り上げて、他の人たちにまいたら、優勝する原動力が失われることになるのではないかと思うのです。
「騎士道精神が大事である」というのは、そういうことなのです。そういうものを一種の文化カルチャーにしていけばよいと思います。
成功するためのチャンスは平等にし、なるべく多くの人に門戸を開き、チャンスを与えていくことが大事です。しかし、結果については、当然ながら、開きが出てきます。これは資本主義の原理です。
そして、差が開きすぎて、「儲けすぎた」と思った人には、それを社会福祉などで多くの人のために使っていくよう、宗教的に勧めていくことが大事だと思います。
もちろん、法的に保護されず苦しい人たちに対して、政府や地方公共団体、NPO(非営利団体)など、いろいろな団体が、救いの手を差し伸べるために努力するのは、当然のことでしょう。
---owari---
私も同じ考えですが、こんなに例えを用いてわかりやすく書けません。
勉強になりました!(#^.^#)
多くの方から読者登録されていますテケさんにコメントを頂き、有難うございました。
共産党のマルクス主義は間違っていると思います。
しかし、日本ではこの危険な思想の怖さを理解していない人が多いので、
テケさんのブログのように、広く警鐘を鳴らして頂きたいと思います。
私のブログは人様の意見の受け売りが多いので、お褒め頂くのは恐縮です。
ご登録有難うございました。
これからもよろしくお願いします。