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世界一の庭師の使命 ~ 石原和幸

2024年07月09日 | 人生
「自分は、世の中のために緑を増やす使命を神様からいただいた」

(「これが!」と決めて必死になれば、必ず道は開けます)
その庭園を見た観衆の一人は、涙を流しながら言った。「どうしてこんな発想ができるの、あなたは」。2008(平成20)年、英国で開かれた世界最大の庭の花のコンテスト、チェルシー・フラワー・ショーでのことである。

エリザベス女王が総裁を務める英国王立園芸協会(会員数約37万人)の主催で、ここで優勝すると、世界の王室、貴族、富豪から「庭園をつくってほしい」と声がかかり、ガーデン関連企業から「うちと契約しないか」という申し込みが殺到する。

その第一次の書類審査の段階で、審査員は「デザインを見た瞬間、今年のゴールドは決まった」と、会場内の場所決めでは人がたくさん並べる場所を与えてくれた。

2004(平成16)年の初挑戦で銀メダルをとり、翌年以降、3年連続で金メダルという偉業が達成された大会だった。ガーデニングの本場、英国でも誰もやったことのない大記録を、一人の日本人がやってのけたのである。

その人、石原和幸さんは、決して恵まれた道を歩んできたわけではない。23歳の時に路上の花屋でアルバイトを始めたのが、この道に入ったきっかけだった。この大会に初挑戦した時は、事業に失敗して8億円もの負債を返済しながら、なんとか2500万円の出展費用を工面した。だから石原さんは言う。

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金がなくったって、アルバイトだって、人生の折り返し地点を過ぎた年になっていたって、借金を背負ってマイナスの状況にいたって、「これが!」と決めて必死になれば、必ず道は開けます。
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(花に人生を賭けよう)
石原さんが花に人生を賭けようと思ったのは23歳の時だった。長崎で自動車の整備士をしていた頃、たまたま、ちょっとやってみようかと生け花を習い始めたのがきっかけだった。

池坊の教室で先生が活けた花を見て感動した。2度、3度と通ううちに、どんどん面白くなって、花屋になろうと決めた。花屋としてどうやって成功するかと考え出したら、止まらなくなった。

近くの路上販売の花屋に飛び込んだ。「ぼくを雇ってもらえないでしょうか。給料はいりません」 家は農家なので、食べる分には困らない。石原さんの本気さを感じたのか、花屋の主人は「じゃあ、明日から来い」と言ってくれた。

実地に花を売りながら、お客さんへの声の掛け方、気持ちのつかみ方、買って得したと思わせる小さなサービスを学んだ。また、向かいの八百屋や魚屋からも、多くの事を学べた。無給のアルバイトでも、目標がはっきりしていれば、短期間で商売の基本を身につけることができた。

25歳で実家の牛小屋を改造して、「花風」という花屋を始めた。しかし昭和57(1982)年7月に長崎を襲った集中豪雨で、花畑も全滅し、やっとの思いで購入した軽トラックも浸水してしまった。

行きつけの喫茶店でマスターに「花屋をやるのが夢だったのに、すべて流されてしまって」と話していたら、ちょうどそれを聞いていたのが花屋の社長で「じゃあ、うちに来るか」と声をかけてくれた。「よろしくお願いします」と即答した。

(「全力で、喜ばせようと思ってやったことは、伝説になるのです」)
石原さんが任されたのは、飲み屋街の奥まった一畳ほどのスペース。朝6時頃から花市場で仕入れをして、夜中の一時まで働いた。

まずしたことは挨拶だった。店の前に立って人が通る度に「おはようございます」と威勢良く挨拶する。バーのママさんから「あんた、よう、あいさつするね」と褒められ、「うちの店に飾る花、今度持ってきて」と頼まれると、大サービスでものすごく大きな花を持っていって、「あんた、すごかばい」と驚かせた。

大切なのは、目の前のお客さんを喜ばせること。それを続けるうちに、お客さんは次第に増えていった。

29歳で独立し、やがて一等地にたたみ一畳の花屋を開いた。そこに若い男性が来て「福岡にいる彼女に誕生日の花をどうしても贈りたい」と言ってきた。「分かりました」と店を閉め、3000円の花を届けるために、長崎から福岡まで一般道を4時間、ひたすら走った。

着いた時には、夜遅くなっていたが、チャイムを鳴らして、出てきた彼女に「Aさんからのプレゼントを届けに来ました」と花を渡した。ピンクダイヤモンドというきれいなチューリップだった。彼女は泣き出し、つられて石原さんも泣いた。

儲けを考えたら、3000円の花を4時間もかけて届ける事などできない。しかし、この花束は二人の間で忘れられないエピソードになる。そして石原さんにとっても。「全力で、喜ばせようと思ってやったことは、伝説になるのです」と彼は言う。

(負債8億抱えて)
ひたすらにお客を喜ばせようと商売を続けていくうちに、店舗は30軒、従業員は100人を超える花屋に成長した。しかし、35歳を過ぎた頃、「長崎で一番になる」という目標も達成し、社員旅行で海外にまで行けるようになった頃、石原さんの中で何かが変わっていた。

会社をもっと大きくしよう、もっとお金を儲けようと、花の自動販売機を作ったり、花屋のコンサルタントをしたりと試みた。そんな時に大手商社が「合弁会社をつくりませんか」と持ちかけてきた。

「全国に800店舗を展開しましょう。従業員も何千人です。5年後には株式を公開し、石原さんは何十億円ものお金を手に入れられるのです」と言われた。

今までの成功で、「なんでもできる」と思っていた石原さんは、この話に乗った。しかし、東京のオフィスに座りながら全国にフライチャンズの花屋を展開していくと、長崎の30店舗を経営するのとは全く違うことが分かってきた。

長崎の30店舗なら、自分が歩いて店舗を回りながら、いけると思った花を大量に仕入れて「一本10円で売れ」といきなりセールを命ずることもできた。しかし、全国展開となると、土地柄も分からなければ、お客の顔も見えない。売上はまったく伸びなかった。

2年間で負債が8億円に達した時、石原さんは合弁会社をたたみ、負債も在庫もすべて引き受けて、長崎に帰った。44歳の時だった。

(「自分がつくっている庭など、どうてい足元にもおよばない」)
長崎に戻ってから、借金返済と戦う毎日が続いた。金利だけで月100万円も返さなければならない。その窮地を作ってくれたのが、庭づくりの仕事だった。5万円から30万円ほどの庭を盆も正月もなく、毎日2件ほどつくり続けた。

それでも取引先の左官屋、大工、植木屋さんには、入金があるまで支払いを待って貰う綱渡りがしばしばだった。いい加減な仕事をして悪い評判が立ったら、それで終わり。頼んでくれたお客さんを喜ばせ続けるしか、道はなかった。

2年ほど経って、これ以上、頑張れないかもしれない、と心が悲鳴をあげそうになっていた時、イギリスにチェルシー・フラワーショーという世界で一番権威のある庭づくりのコンテストがあることを知った。

すぐにイギリスに飛んだ。会場に一歩足を踏み入れたとたん、鳥肌が立った。それまで見たこともないようなこだわりぬいた庭が並んでいた。

「自分がつくっている庭など、どうてい足元にもおよばない」「恥ずかしい」、長崎でちょっと有名なガーデナー気分になっていた自分に赤面した。

長崎に戻って社員を集め、「チェルシー・フラワーショーに出て、ゴールドメダルをとる」と宣言した。花屋として成功して天狗になっていたのが一転、丸裸となり、この2年間「お客さんを喜ばせなければならない」と必死で庭造りに取り組んできた。そして心が枯れかけていた時に、次の目標と出会えたのである。

(「これだ!」)
チェルシー・フラワーショーに出展するには、2、3ヶ月の間に、庭のデザインとコンセプトを固めて、書類申請をしなければならなかった。

庭造りの仕事を続けながら、時間の許す限り、デザインを考えた。しかし庭造りの雑誌や専門書を読んで真似をしようとしても、どうもしっくりしない。自分の求めているものとは何かが違う。申し込み期限のぎりぎりまで、ダメだダメだ、という日々が続いた。

しかし、ひとつの事を四六時中考えていると、答えは向こうからやってくる。仕事から帰る車中で、長崎の海に沈みゆく夕日が、雲の切れ間から差し込み、キラキラ輝く海面が見えた。「これだ!」

夕日を見ながら、涙が流れた。長崎で育ったいろいろな思い出が頭の中で駆け巡り、しみじみと感じ入っていた。このありのままの光景にこそ、人の心を動かす何かがある。

それからは、心打たれる風景をただひたすら探し回った。そして、ついに出会ったのが、熊本県阿蘇郡白水村の光景だった。

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そこは川の源泉でした。透き通った泉の底から、ぼこん、ぼこんと水が湧いていました。静寂に包まれた森のなかに木漏れ日が差し込み、水面をキラキラと輝かせていた。聞こえるはずのない魚の泳ぐ音が、シュシュ、シュシュと聞こえてくる。まるで神が降りたかのような聖地。
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その風景が『源』という作品のコンセプトとなった。それで応募したところ、シック・ガーデン(現代的都市庭園)部門の応募400チームほどの中から、実際に庭を作って審査を受ける10チームの一つに選ばれた。

(「ガーデン難民」の奮闘)
しかし海外からの出展をするには、旅費、滞在費、現地で調達する材料費などで5千万円ほどの費用がかかるという。それに3ヶ月ほど日本での仕事を休まなければならない。

妻は「あんたね、住宅ローンも残っとるとよ。この間、銀行の人が家を計りにまで来たとよ。なのに、全然懲(こ)りんとね」と大反対した。社員たちもこのまま頑張れば、借金は返せるはず、と言う。

しかし、石原さんは言い出したら聞かなかった。親から相続した実家を1000万円で売り、それ以外の金策も含めて、なんとか2500万円を作った。イギリスに渡るまでの半年間、必死で庭を造り続けた。

そしてついにチーム総勢20名でイギリスに渡った。一番、困ったのは、野生動植物の輸出入を制限するワシントン条約のために、植物をすべて現地で調達しなければならないことだった。

メインとなる松が見つからない。盆栽ブームで松くらいあるだろうと思っていたが、日本でイメージしていた形や雰囲気のものとはまるで違う。

日本でスタッフがあちこちに電話をかけて、ようやく何十年か前にボンサイを扱うイギリスの園芸店に松を輸出していたと分かったが、それは売り物ではなく、まだ病気にかかっていた。「必ず返しますから」となんとか借りだし、「なんとか元気になってくれ」と声をかけながら、霧吹きで朝晩水をやった。

 白い砂を注文したら、届いたのは黄色い砂だった。仕方がないので、会場内を探し回り、オーストラリアチームが持っているのを見つけて、分けて貰った。ほかにも会場を歩き回っては「電線をください」などとやっていたので、会場を歩いていると、「ミスター石原、何か困ったことはないか」と声がかかるほどの有名人となった。

他のチームはテントに椅子やテーブルを並べて昼食をとるのに、石原さんのチームはビニールシートに座って弁当を食べ、そのまま昼寝で寝転がる始末。他のチームから「ガーデン難民」と呼ばれ、いろいろな差し入れまでしてもらった。

チーム同士で競い合っているけど、彼らを結んでいるのは庭造りへの愛情だった。

(「世の中のために緑を増やす使命を神様からいただいた」)
それでも庭が出来上がるにつれ、人が集まり始めた。イギリスでは庭にたくさんの植物を使う。それを逆手にとって、極限まで少ない植物で『源』を表現した。白い砂が池の水面を表し、そこに2本の松が立っているというシンプルなデザインだ。「こんな庭は見たことがない」と多くの人が驚きの表情を浮かべた。

ショーの最終日、審査員から手渡されたのは、銀メダルにあたるシルバーギルト。初挑戦の日本人がシルバーギルトを受賞したことで、イギリスではいろいろなメディアが取り上げて、大騒ぎとなった。

しかし、日本の空港で待っていたのは、社員の出迎えの軽トラック1台のみ。それでも石原さんは世界で通用したという大きな自信をつけるとともに、「次も絶対出る、ゴールドメダルを必ずとる」と、借金を返しながら、また走り出した。

翌年からの挑戦で、3年連続金メダルという偉業を達成するのだが、それは本書を読んでのお楽しみとしよう。

庭を見て喜んでくれるお客さんたちの笑顔に、石原さんは「花と緑は人を幸せにする力がある」と信ずる。そして「自分は、世の中のために緑を増やす使命を神様からいただいた、ゴールドメダルはそのためのものだった、という気がする」と石原さんは言う。
 
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
 
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