以上で、五つの徳目について、お話をしました。しかし、この五つの徳目を実践して王道に入っても、まだ足りないものがあります。それは、この五つの徳目の基礎、底辺にあって、これらを支えるものです。これが「愛」です。古い言葉では「仁」ともいいますが、この愛の力が基礎になければならないのです。
愛をもって、「礼」をせよ。すなわち、愛をもって、愛の心をもって、礼を守れ、礼儀を行なえ、己が利害のために、己が利得のために、礼儀を尽くしても、そのようなものは根が生えない。
また、愛の心をもって、「智」をかたちづくれ。人びとを愛するために、より幸福にしていくためにこそ、智を使わなければならない。人びとを害するための智など、このようなものは役に立たない。愛をもって、智をかたちづくれ。
そして、愛の心でもって、民の「信」を、人びとの「信」を集めよ。これも、自己の利害のためであってはならない。自分の野心達成のための信であってはならない。うわべだけの信であってはならない。人びとに甘い言葉を囁(ささや)き、彼らの歓心を買い、彼らの利害に訴えて集める信であってはならない。愛をもって信を行なえ、その愛ゆえに人びとの信を集めよ。
さらに、「愛」をもって、「義」を行なえ。愛の心をもって善悪を分け、愛の心をもって道理を見抜き、愛の心をもって判断せよ。ここにおいて冷たき人間とはなるな。理性の人、理の人は、ときに冷たき人間となってしまうが、しかし、あくまで愛をもってこの義を行なえ。
そして、「愛」をもって、「勇」を行なうことです。蛮勇(ばんゆう)であってはなりません。単に危険を冒(おか)すだけの勇や、単に自分が有頂天になるための勇であってはなりません。華々(はなばな)しいだけの勇であってはなりません。人びとの注目を集めるだけの勇であってはなりません。
愛ゆえに、愛のゆえに、勇気ある人間にならなければならないのです。多くの人びとを愛するがゆえに、みずからの身命を賭(と)して、力強く行動せねばならないのです。これを間違えてはなりません。
この心、愛をもって勇を行なわない場合に間違いやすい点は、功名心に走るということです。あなた方のなかにも、勇を行なっていると思っていても、じつは功名心のなかにある人も数多くいるはずです。その功名心とは、一つには自分を利さんとする心です。人びとから愛を奪わんとする心です。そうであるならば、この勇を実践するにおいて、功名心を捨てなければなりません。
功名心を捨てるためには、真に多くの人びとに、与えきりの愛を実践する必要があるのです。「与える愛」とは、このことをいうのです。「無償の愛」とは、「無私の愛」とは、このことをいうのです。「与えつづける愛」とは、このことをいうのです。
間違っても、勇気ある行動が、己れの名誉のため、名をあげるため、そういうことのためだけに使われては相(あい)なりません。それは真なる王道ではなく、そこにまた覇道に入る抜け穴ができあがっているということを、忘れてはならないのです。
---owari---
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