九州薩摩にいたザビエルは日本での布教の許可を得るために、京都に行くことにした。弟子2人をお供にして、薩摩から長崎・平戸までは船で渡り、そこからは歩いて上京した。
その距離はおよそ780㎞あるが、その道中の記録を本国(ポルトガル)のイエズス会に送っていた。
その文(ふみ)に書かれていた内容は次のようなものです。
①道中、田舎の子供たちに異国人だとして、石を投げられたりした。日本の冬はことのほか厳しく、道中は長かったので、途中で体が動かなくなって道端でしゃがみこんでいた。そのような時に村人が声をかけてくれて、京に上るとは大変なことだと言って、自分たちのにぎりめしを食べさせてくれた。
②さらに道中で、侍が声を掛けてくれて、京に行くとは大変なことだと言って、自分たちは堺まで船で行くので、乗りなさいと言ってくれた。
③乗船した船の中では、またもや見知らぬ人から声を掛けてもらい、堺に着いたならば、この人を訪ねなさいと言って、手紙を渡してくれた。そして、堺に着いてからその人を訪ねると厚遇を受けたのでした。
④ザビエルは度々、本国のイエズス会に手紙を送っているが、「日本人には感謝しても、感謝しきれない」と書き溜めた。何と書けばよいのか、その有難さを表現できないと書いていたのです。
⑤ザビエルは上京後、天皇と将軍にも会えず、九州・平戸に戻った。沢山の献上品を用意して、当時、西の京といわれた山口の大内義隆を訪ね、布教を許されて、屋敷も与えられて、信者も多く増えて、日本最初のキリスト教会大道寺(だいどうじ)を造りました。
⑥本国に戻って、多くの宣教師を連れて戻って来ると言い残し、帰国の途中で病気で亡くなったのでした。
⑦ザビエルはインドで布教中にある日本人と知り合い、その日本人の賢明さに驚いて、日本で布教をすることになったと言われています。運命的な出会いがインドであったのです。
⑧教科書にも掲載されているあの有名な「ザビエルの絵」はずっと信者の中で受継がれてきたものでした。戦国時代、キリシタン大名として有名な高山右近が治めていた大阪・茨木の民家から発見されものでした。---by NHK「歴史ヒストリア」---
日本布教の基盤を整えていったザビエルは、アジア全体を教化するために中国への布教が不可欠と実感し、いったんインドのゴアに戻り、1552年4月中国に向かい、広州に近い上川島に着いたが、熱病に感染し生涯を閉じました。
ザビエルは日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡 3』より)と高評価を与えているのです。
---by Wikipedia---
さて、以前に投稿した私のブログ『「江戸時代の日本は凄い!」を取り上げてみた②』(外国人が見た日本)』でも同じように、江戸時代の日本人は外国人から高い評価を受けています。
日本人は現代においても、世界から注目され、尊敬されているのです。
私たちは日本人として、誇りと自信を取戻し、世界に貢献する国家として活躍しなければならない時代に入ったと思います。
---owari---
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