「おなごは大黒柱を支える大地」
(「おなごは大地のようなもの」)
「おなごは大地のようなもの」。明治22(1889)年生まれのセツは父親からそう聞かされて育った。幕末の会津戦争の際、セツの父親はまだ幼児で、そのまた父と二人の兄は北上してくる新政府軍を迎え撃つために出立した。
__________
その際の、母じゃの見事なことよ。どっしり構えて笑顔さえ浮かべておった。そんなことがあってから、わしはおなごというのは大地のようなものだと思うようになった。
大黒柱というが、しっかりした良い大地であらねば立っていられるわけがあるまい。一家の大黒柱を受けとめて、その大黒柱を堂々たらしめんのは、おなごにかかっておる。それをよう憶えておくのであるぞ。大地とならんために学び、おのれを鍛錬するのだ。
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そう父から聞いたセツは、喜びを抱いた。
__________
そんな立派なばばさまを私はお手本にせねばならぬのかと、恐ろしいような気持ちもありましたよ。けれど一方で、おなごはか弱きものとされているのに実はそうではなかったのだと、楽しいような気がしたものです。なんだか手を打って喜びたいような気分でしたねえ。
父を手伝って畑仕事もしましたから、いかに大地の質が大切かというのは、そんなことからもわかりましたし、父もことあるごと、上質な作物を作るためにはなんといっても土だと言っておりましたからの。
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封建時代は「男尊女卑」だったと一般に信じられているが、それは誤った先入観だ。セツからこういう話を聞かされて育てられた孫娘、石川真理子さんは、その著書『女子の武士道』で「むしろ男尊女尊であり、日本は昔から男女共同参画だったのです」と語る。
(「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう」)
「武士道」というと、いかにも生真面目な、堅苦しい生き方と考えるのも、誤った先入観のようだ。会津藩士は会津戦争に敗北した後、青森県の下北半島斗南(となみ、現在のむつ市)に押し込められて、厳しい寒さの中、食べ物さえもろくにないような境遇におかれた。
その頃の苦しい生活をどうして耐えることができたのか、セツが聞くと、
__________
すると父は笑い飛ばすような勢いで陽気に言ったのですよ。そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう。誇りを傷つけられたなどと自害しては相手の思うつぼじゃ。陰で奥歯を噛んでいたとても平気の平左で生きてやるのよ。
お前のじじさまは誇りをもって帰農したのだ。自らの食い扶持(ぶち)を自らの手でつくるのだ、誇りをもたぬわけがない。ばばさまにしたって、お前も憶えておろう、得意のお縫いやお仕立てで一所懸命一家を支えたではないか。
どんな目に遭おうとも、どっこいそれがどうしたと、智恵と心意気で相対してやるのだ。士族が無くなろうと西洋張りの日本国が生まれようと、武士の心意気が生きていることを見せてやるのよ。
とまあ、想像もしなかったご返事だから、私は驚いての。けれど、これが天晴れということかと、私の気持ちまで晴れ晴れしたものです。
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著者・石川真理子さんは、ここで小泉八雲が『日本人の微笑』の中で「日本人は心臓が張り裂けそうな時でさえも微笑んでみせる」と書いているのを引用し、東日本大震災の時にも多くの被災者が微笑を浮かべながらインタビューに答えていた事実を指摘する。
困難にも明るく立ち向かうのが日本人の心根であり、武士道はこの国民性に根ざしている。「武士は食わねど高楊枝」とは、見栄ではなく誇りを守るための「やせ我慢」なのである。
(片目を失ったセツ)
セツが11歳のときに、農繁期で大人たちがこぞって農作業に出てしまうので、二つになるかならないかの女の子の子守を頼まれた。女の子を背負って庭に出たセツは、飛び石を飛んで女の子を喜ばせていた。
その時、ふとした拍子にバランスを崩して、前に倒れこんだ。とっさに女の子に怪我をさせてはいけない、と思ったのか、両手で背中の女の子をしっかりと自分の背に押し付けたまま、前に手を突けない姿勢で倒れこんだ。悪いことにそこには植え込みがあり、そのひと枝で左目を突いてしまった。
女の子は怪我ひとつせずに、びっくりした顔でセツの背中から降りた。異変に気がついた大人たちが駆けつけると、セツは自由になった左手で片目を押さえ、その手指の間から血が流れていた。セツは痛がる様子もなく、女の子を危ない目に遭わせたしまったことと、農作業を中断させてしまったことを詫びた。
セツは左目を失明し、その目は白く濁って、見た目にも恐ろしげになってしまった。これでは嫁にも行けない。目の痛みは軽くなっても、心の方は沈んでいった。
(「清く正しい心が見える」)
セツは自分の顔を見るのがつらくて、鏡を見なくなった。それに気がついた母親は、ある日、静かにこう諭した。
__________
鏡に向かってごらんなさい。おなごは毎日よく鏡を見て、おのれの心に陰が射していないか注意しなければならぬのです。その左目が醜いと思うのであれば、なぜ醜いのか考えながら見つめてごらんなされ。それはほかならぬ、お前の心が醜いと決めつけているからでないのかえ。
私には醜くは見えませぬ。おのれより先に幼い子どもを守ったという、おまえの清く正しい心がそこに見えるから、醜くは見えぬのです。
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「清く正しい心が見える」という母の言葉は、あまりにありがたく思えた。そして、自分がまだまだ自分の運命を受け入れていなかったのだ、と分かった。
武士道は自らの運命を穏やかに受け入れ、静かに従う心を求むる。「なぜ自分がこのような目に遭わなければならないのか」と運命を恨んでいるうちは、自分の本当の人生は始まらない。
目を失ったという自分の運命を静かに受け入れた所から、「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう」という困難にも明るく立ち向かう生き方が始まる。
(「生涯の友を見つけなされ」)
日露戦争後は「自由主義」「自然主義」の風潮が起こり、封建時代の道徳などこれからの時代には通用しないという考え方が広まった。セツの女学校でも、級友たちはそういう風潮に染まっていた。
__________
私も友人たちのように、いっぱしに自由という言葉を使ってみたくてね。だけどその実、何が自由だかわかっていなかったものですよ。せいぜい厳しい父の教えから逃れるのが自由と思ったぐらい。
それでも女学校に通っていた友人をまじえて自由とは何か、なんてことをしゃべりあっていると、不思議な高揚感と解放感があっての。それがますます父親への反発心に火をつけて、反抗したい気持ちになったのですよ。そうしたら父にひどく怒鳴られまして、それは恐ろしかったものですよ。
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セツが「自由主義」という言葉を使った瞬間、父親は烈火のごとく怒って、「自由と身勝手をはき違えおって、そんなくだらん輩(やから)に迎合するぐらいなら、いっそおまえは孤独を選べ!」と怒鳴られたのだった。
セツはじっと唇を噛み、かたちだけ頭を下げて「わかりました」と謝った。その様子を見ていた母親は、しばらくしてから娘を呼んで、こう言い聞かせた。
__________
ほんとうは親身になって話せる友が欲しいのではないですか。おまえが友に話したいことは、自由主義のことではなかろう。安心しなされ、おまえがまごころを失わずにいれば、かならず本物の友人ができます。
ほんとうの自分を隠して人とつきおうても、そんなのは偽物です。一時の気を紛らわす相手ではなく、生涯の友を見つけなされ。
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(「人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ」)
セツは女学校で級友たちから「セツさんはお堅いわ。まるで古武士のようね」と敬遠された。そのように受け取られるだろうとは分かっていても、やはり悔しい思いは捨て切れなかった。
そんな時、千代と知り合った。千代も会津藩士の娘で、没落寸前となった一家をなんとか支えようと、わずかばかりの収入でも、とセツの家を訪ねてきた。気の毒に思った父親は、働き口の世話をした。千代はうれしさのあまり涙を流した。
「武家の娘は泣いてはいけない」と教えられて育てられたセツは、いけないものを見たように、はっとして目をそらした。
__________
すると母が、人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ。ごらんなさい。胸があつくなるようです。こんなに喜んでいただけて幸せだこと・・・ と言うての。
おそるおそる見れば、確かに心が動かされるようにきれいだった。ありがたいと流す涙は礼を失したりはしないということが、ようわかりましたよ。
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それからセツと千代は心を許しあい、忙しく働く合間にも行き来して、おしゃべりをするのが何よりの楽しみになった。
そんなある日、千代はこう言った。「セツさんは古武士のようと言っていた人がいたけれど、それはまったく素敵なことね。私は自慢したい思いだったのよ」
千代の思いがけない言葉に、気がつけばセツの頬に涙が伝わっていた。
__________
少し恥ずかしかったけれど、ずいぶんうれしい気持ちでしたよ。友とはなんと良いものだろうと思いました。そしてそれからはいっそう、涙はうれしいときしか流すまい、と思うようになったのです。
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(「自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼」)
表情に注意するのは、武士道の特徴である。それはいつも能面のような無表情を勧めているわけでない。セツの母の言うように、人の情けに触れたときの美しい涙は流しても良いのである。
新渡戸稲造は著書『武士道』の中で次のように言っている。
__________
武士道は一方において不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼を重んじた。
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大震災で家を失うような大きな損害を受けても、微笑を浮かべてインタビューに応じた人々は、「忍耐と不屈の精神」の持ち主であり、また他者の平穏を損なわないための「礼」を実行しているのである。
近隣諸国の中には、不幸に会うと人前で大袈裟に泣き喚くことを慣習としている国もあるが、武士道から見れば、それは運命を受け入れられずにあがいている姿であり、また他者への思いやりのかけらもない姿である。そこには困難と戦い、他者を思いやる人間精神の自由はない。
(国家の元気、気風は母の感化による)
ここで紹介したセツの母親の言動から、「おなごは大地のようなもの」という事は十分に感じとれよう。こうして育てられたセツは、やがて自ら「大地」となって、大恐慌、関東大震災、そして大東亜戦争と次から次へと襲ってくる苦難に負けずに夫を支え、3男3女を育てていくのだが、その波瀾万丈の物語は原著で味わっていただきたい。
明治期の女性教育の代表者・下田歌子の次のように語っている。
__________
その国民の元気、気風のいかんは、またおのおのその母の感化によるものとすれば、母としての婦人は、実に国家の元気、気風を自分の双肩に担って立つものと申さねばなるまいと思います。
(「おなごは大地のようなもの」)
「おなごは大地のようなもの」。明治22(1889)年生まれのセツは父親からそう聞かされて育った。幕末の会津戦争の際、セツの父親はまだ幼児で、そのまた父と二人の兄は北上してくる新政府軍を迎え撃つために出立した。
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その際の、母じゃの見事なことよ。どっしり構えて笑顔さえ浮かべておった。そんなことがあってから、わしはおなごというのは大地のようなものだと思うようになった。
大黒柱というが、しっかりした良い大地であらねば立っていられるわけがあるまい。一家の大黒柱を受けとめて、その大黒柱を堂々たらしめんのは、おなごにかかっておる。それをよう憶えておくのであるぞ。大地とならんために学び、おのれを鍛錬するのだ。
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そう父から聞いたセツは、喜びを抱いた。
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そんな立派なばばさまを私はお手本にせねばならぬのかと、恐ろしいような気持ちもありましたよ。けれど一方で、おなごはか弱きものとされているのに実はそうではなかったのだと、楽しいような気がしたものです。なんだか手を打って喜びたいような気分でしたねえ。
父を手伝って畑仕事もしましたから、いかに大地の質が大切かというのは、そんなことからもわかりましたし、父もことあるごと、上質な作物を作るためにはなんといっても土だと言っておりましたからの。
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封建時代は「男尊女卑」だったと一般に信じられているが、それは誤った先入観だ。セツからこういう話を聞かされて育てられた孫娘、石川真理子さんは、その著書『女子の武士道』で「むしろ男尊女尊であり、日本は昔から男女共同参画だったのです」と語る。
(「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう」)
「武士道」というと、いかにも生真面目な、堅苦しい生き方と考えるのも、誤った先入観のようだ。会津藩士は会津戦争に敗北した後、青森県の下北半島斗南(となみ、現在のむつ市)に押し込められて、厳しい寒さの中、食べ物さえもろくにないような境遇におかれた。
その頃の苦しい生活をどうして耐えることができたのか、セツが聞くと、
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すると父は笑い飛ばすような勢いで陽気に言ったのですよ。そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう。誇りを傷つけられたなどと自害しては相手の思うつぼじゃ。陰で奥歯を噛んでいたとても平気の平左で生きてやるのよ。
お前のじじさまは誇りをもって帰農したのだ。自らの食い扶持(ぶち)を自らの手でつくるのだ、誇りをもたぬわけがない。ばばさまにしたって、お前も憶えておろう、得意のお縫いやお仕立てで一所懸命一家を支えたではないか。
どんな目に遭おうとも、どっこいそれがどうしたと、智恵と心意気で相対してやるのだ。士族が無くなろうと西洋張りの日本国が生まれようと、武士の心意気が生きていることを見せてやるのよ。
とまあ、想像もしなかったご返事だから、私は驚いての。けれど、これが天晴れということかと、私の気持ちまで晴れ晴れしたものです。
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著者・石川真理子さんは、ここで小泉八雲が『日本人の微笑』の中で「日本人は心臓が張り裂けそうな時でさえも微笑んでみせる」と書いているのを引用し、東日本大震災の時にも多くの被災者が微笑を浮かべながらインタビューに答えていた事実を指摘する。
困難にも明るく立ち向かうのが日本人の心根であり、武士道はこの国民性に根ざしている。「武士は食わねど高楊枝」とは、見栄ではなく誇りを守るための「やせ我慢」なのである。
(片目を失ったセツ)
セツが11歳のときに、農繁期で大人たちがこぞって農作業に出てしまうので、二つになるかならないかの女の子の子守を頼まれた。女の子を背負って庭に出たセツは、飛び石を飛んで女の子を喜ばせていた。
その時、ふとした拍子にバランスを崩して、前に倒れこんだ。とっさに女の子に怪我をさせてはいけない、と思ったのか、両手で背中の女の子をしっかりと自分の背に押し付けたまま、前に手を突けない姿勢で倒れこんだ。悪いことにそこには植え込みがあり、そのひと枝で左目を突いてしまった。
女の子は怪我ひとつせずに、びっくりした顔でセツの背中から降りた。異変に気がついた大人たちが駆けつけると、セツは自由になった左手で片目を押さえ、その手指の間から血が流れていた。セツは痛がる様子もなく、女の子を危ない目に遭わせたしまったことと、農作業を中断させてしまったことを詫びた。
セツは左目を失明し、その目は白く濁って、見た目にも恐ろしげになってしまった。これでは嫁にも行けない。目の痛みは軽くなっても、心の方は沈んでいった。
(「清く正しい心が見える」)
セツは自分の顔を見るのがつらくて、鏡を見なくなった。それに気がついた母親は、ある日、静かにこう諭した。
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鏡に向かってごらんなさい。おなごは毎日よく鏡を見て、おのれの心に陰が射していないか注意しなければならぬのです。その左目が醜いと思うのであれば、なぜ醜いのか考えながら見つめてごらんなされ。それはほかならぬ、お前の心が醜いと決めつけているからでないのかえ。
私には醜くは見えませぬ。おのれより先に幼い子どもを守ったという、おまえの清く正しい心がそこに見えるから、醜くは見えぬのです。
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「清く正しい心が見える」という母の言葉は、あまりにありがたく思えた。そして、自分がまだまだ自分の運命を受け入れていなかったのだ、と分かった。
武士道は自らの運命を穏やかに受け入れ、静かに従う心を求むる。「なぜ自分がこのような目に遭わなければならないのか」と運命を恨んでいるうちは、自分の本当の人生は始まらない。
目を失ったという自分の運命を静かに受け入れた所から、「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう」という困難にも明るく立ち向かう生き方が始まる。
(「生涯の友を見つけなされ」)
日露戦争後は「自由主義」「自然主義」の風潮が起こり、封建時代の道徳などこれからの時代には通用しないという考え方が広まった。セツの女学校でも、級友たちはそういう風潮に染まっていた。
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私も友人たちのように、いっぱしに自由という言葉を使ってみたくてね。だけどその実、何が自由だかわかっていなかったものですよ。せいぜい厳しい父の教えから逃れるのが自由と思ったぐらい。
それでも女学校に通っていた友人をまじえて自由とは何か、なんてことをしゃべりあっていると、不思議な高揚感と解放感があっての。それがますます父親への反発心に火をつけて、反抗したい気持ちになったのですよ。そうしたら父にひどく怒鳴られまして、それは恐ろしかったものですよ。
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セツが「自由主義」という言葉を使った瞬間、父親は烈火のごとく怒って、「自由と身勝手をはき違えおって、そんなくだらん輩(やから)に迎合するぐらいなら、いっそおまえは孤独を選べ!」と怒鳴られたのだった。
セツはじっと唇を噛み、かたちだけ頭を下げて「わかりました」と謝った。その様子を見ていた母親は、しばらくしてから娘を呼んで、こう言い聞かせた。
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ほんとうは親身になって話せる友が欲しいのではないですか。おまえが友に話したいことは、自由主義のことではなかろう。安心しなされ、おまえがまごころを失わずにいれば、かならず本物の友人ができます。
ほんとうの自分を隠して人とつきおうても、そんなのは偽物です。一時の気を紛らわす相手ではなく、生涯の友を見つけなされ。
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(「人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ」)
セツは女学校で級友たちから「セツさんはお堅いわ。まるで古武士のようね」と敬遠された。そのように受け取られるだろうとは分かっていても、やはり悔しい思いは捨て切れなかった。
そんな時、千代と知り合った。千代も会津藩士の娘で、没落寸前となった一家をなんとか支えようと、わずかばかりの収入でも、とセツの家を訪ねてきた。気の毒に思った父親は、働き口の世話をした。千代はうれしさのあまり涙を流した。
「武家の娘は泣いてはいけない」と教えられて育てられたセツは、いけないものを見たように、はっとして目をそらした。
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すると母が、人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ。ごらんなさい。胸があつくなるようです。こんなに喜んでいただけて幸せだこと・・・ と言うての。
おそるおそる見れば、確かに心が動かされるようにきれいだった。ありがたいと流す涙は礼を失したりはしないということが、ようわかりましたよ。
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それからセツと千代は心を許しあい、忙しく働く合間にも行き来して、おしゃべりをするのが何よりの楽しみになった。
そんなある日、千代はこう言った。「セツさんは古武士のようと言っていた人がいたけれど、それはまったく素敵なことね。私は自慢したい思いだったのよ」
千代の思いがけない言葉に、気がつけばセツの頬に涙が伝わっていた。
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少し恥ずかしかったけれど、ずいぶんうれしい気持ちでしたよ。友とはなんと良いものだろうと思いました。そしてそれからはいっそう、涙はうれしいときしか流すまい、と思うようになったのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(「自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼」)
表情に注意するのは、武士道の特徴である。それはいつも能面のような無表情を勧めているわけでない。セツの母の言うように、人の情けに触れたときの美しい涙は流しても良いのである。
新渡戸稲造は著書『武士道』の中で次のように言っている。
__________
武士道は一方において不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼を重んじた。
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大震災で家を失うような大きな損害を受けても、微笑を浮かべてインタビューに応じた人々は、「忍耐と不屈の精神」の持ち主であり、また他者の平穏を損なわないための「礼」を実行しているのである。
近隣諸国の中には、不幸に会うと人前で大袈裟に泣き喚くことを慣習としている国もあるが、武士道から見れば、それは運命を受け入れられずにあがいている姿であり、また他者への思いやりのかけらもない姿である。そこには困難と戦い、他者を思いやる人間精神の自由はない。
(国家の元気、気風は母の感化による)
ここで紹介したセツの母親の言動から、「おなごは大地のようなもの」という事は十分に感じとれよう。こうして育てられたセツは、やがて自ら「大地」となって、大恐慌、関東大震災、そして大東亜戦争と次から次へと襲ってくる苦難に負けずに夫を支え、3男3女を育てていくのだが、その波瀾万丈の物語は原著で味わっていただきたい。
明治期の女性教育の代表者・下田歌子の次のように語っている。
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その国民の元気、気風のいかんは、またおのおのその母の感化によるものとすれば、母としての婦人は、実に国家の元気、気風を自分の双肩に担って立つものと申さねばなるまいと思います。
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明治日本は、極東の島国からわずか半世紀ほどの間に世界五大国の一つにまで成長したのだが、その国家の元気、気風は、全国津々浦々でセツの母親のような女性が「大地」となって生み出したものだろう。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
明治日本は、極東の島国からわずか半世紀ほどの間に世界五大国の一つにまで成長したのだが、その国家の元気、気風は、全国津々浦々でセツの母親のような女性が「大地」となって生み出したものだろう。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
---owari---
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