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自主独立への気概

2023年03月13日 | 日本
(日本は中華文明の亜流か?)
自由主義対共産主義のイデオロギー対決が終わって、今後は文明間の戦いになると、ハンチントンは最近のベストセラー「文明の衝突」で予言している。西洋文明に対して、イスラム文明、儒教文明などが、それぞれ自らの価値観と立場を主張して、国際的な衝突が起きるだろう、というのである。こういう時代に「自分が何者であるか」を明確にできない民族は、それだけ弱い立場にならざるをえない。

それでは、日本はどの文明に属しているのか?「中国と日本は同文同種」とよく言われる。こうした言葉から、日本文化は「中華文明」の亜流だと見下す中国人もいる。その中華文明を日本に伝えたのは朝鮮だったと、優越感を持つ韓国人も多い。

実は、ハンチントンは、日本は5世紀頃にシナ文明から独立した独自の文明圏であると考えている。そして世界の中で唯一、一国だけからなる文明だと言うのである。

果たして日本はシナ文明の亜流なのか、それとも、独自の文明なのか、その自覚によって、今後の国際社会での振る舞いも変わってこよう。以下、歴史的な事実に基づいて、この問題を考えてみよう。

(シナの属国支配システム)
伝統的にシナは「冊封(さくほう)体制」というシステムによって、周辺諸国を支配していた。冊封とは、シナ王朝の皇帝が諸侯に封禄・爵位を授ける事である。転じて、近隣諸国の君主に官号・爵位などを与えて、擬似的な君臣関係を結ぶシステムを冊封体制と言う。

たとえば伝統的に朝鮮国王の地位は、シナ王朝の廷臣の下に置かれた。1881年に朝鮮半島を管理監督する権限を持ったのが、北洋大臣李鴻章(後に日清戦争後の交渉での清国側代表となる人物)だった。

1882年に李鴻章の配下達は、朝鮮国王の実父大院君を、清朝朝廷の権限を侵して、朝鮮王の冊立に口を出したとして、天津に強制連行している。まさに李朝朝鮮は、自国の国王すら自民族では決められない、という属国の地位にあった。

(冊封体制からの独立宣言)
我が国でも、3世紀に邪馬台国の卑弥呼は、魏王朝から「親魏倭王」に任命されており、19世紀までの朝鮮と同じ冊封体制のもとにあった事が分かる。それにしても、いくら弱小後進国であっても、倭、邪、卑などと、平気で侮蔑的な漢字をあてている所が、すさまじいばかりの「中華」意識だ。こういう侮蔑に耐えてまでも、シナから与えられた「王」の地位は、権威があったという事であろう。

我が国が冊封体制からの離脱を明確に宣言したのは、7世紀に入ってからである。推古天皇16年に聖徳太子が、遣隋使の派遣とともに、送った国書には、

東の天皇、西の皇帝に白(もう)す

として、ここに初めて天皇という用語が使われる。もとより、このような対等の呼称を用いる事で、随の皇帝を怒らせ、征伐を受ける恐れもあったのだが、聖徳太子は天皇号を使うことで、シナの冊封体制から独立し、併せて対等な外交関係を築こうとしたのである。

(独自の年号の採用)
冊封体制のもう一つのシンボルは年号である。世界を治めるシナ皇帝が年号を定め、他の周辺国はそれを有り難く使わせていただく。年号という中華文明の恩恵を、周囲の野蛮国にも施してやるという態度である。

朝鮮では6世紀中頃、新羅に法興王というすぐれた国王が現れて、シナの律令制度や仏教文化を取り入れ、ついに年号も独自のものを立てた。

ところが、7世紀の中頃、新羅の外交使節が唐へ行くと、太宗皇帝は「新羅はわが大唐帝国に臣下として使えている家来の分際で、勝手に独自の年号を使うのはけしからん」と怒った。

新羅の使節は、「今まで大唐帝国の正しい暦をお頒(わか)ちいただけなかったので、勝手な年号を使ってきたが、皇帝の思し召しによって、大唐帝国の年号を使わせていただきたい」と謝っている。これ以降、650年から、李朝朝鮮の末期まで、千二百数十年間、朝鮮はシナの年号を忠実に使い続けたである。

日本が独自の年号を使い出したのは、ちょうどこの頃、西暦645年の大化の改新の時である。おりしも太宗のもとで大唐帝国が非常な勢力を誇っていた頃で、日本もその圧力を感じていたに違いない。 しかし、当時の朝廷は、大化の改新を断行し、それを記念するかのように独自の年号を始めたのである。

独自の年号は、大化、白雉と続いた後、半世紀近くのブランクがあくが、701年以降、現在の平成まで、千三百年近く、我が国独自の年号が続いてきた。

(国号「日本」の成立)
冊封体制下では、シナ帝国から倭という蔑称で呼ばれていた我が国は、やがて「日本」と自称するようになる。この国号がいつ成立したかはまだ流動的だが、一説には第41代持統天皇3年(西暦689年)に我が国で初めての体系的な国の基本法としてまとめられた「浄御原令(きよみはらりょう)」が最初である。

ちなみに「朝鮮」という国号の由来も興味深い。高麗の将軍だった李成桂は実権を掌握して王位につくと、まず当時のシナ王朝である明に使いを出し、皇帝に自らの冊封、すなわち王としての承認を仰いだ。

次に李成桂は再び明に使節を派遣して、「朝鮮(朝の美しい国)」と「和寧(李成桂の出身地)」のいずれかを国号に選んで欲しいと要請した。明の太祖は、由緒正しく優雅であるとして、「朝鮮」を国号に定めた。これが李朝朝鮮の国号の由来である。

まことにシナ皇帝から見れば、朝鮮とは冊封体制の優等生であった。だからこそ、朝鮮というような格調高い国名を許したのだろう。我が国の「倭」とはえらい違いだと思うのは、劣等生のひがみだろうか?

しかし、ただシナの蔑称に甘んじずに、自ら「日本」と号した我が祖先のプライドを思い起こすべきだろう。

(国字の確立)
19世紀末まで冊封体制に忠実に従っていた朝鮮と比較して、我が国は7世紀の始めに自国の君主制を「天皇」と呼び、中頃には独自の年号を立て、末には自ら国号を宣言した。

こうした1世紀にわたる努力の結果として、我が国は政治的・外交的に完全にシナの冊封体制から脱却して、その後の奈良、平安時代における国風文化創造の基盤を作った。その一端を国字に見てみよう。

我が国では、古事記や万葉集では、漢字を表音文字として使うという独創的な表記法が考案されたのだが、それが進んで、ひらがなが発達した。それが公的な文書の中で、正式に使われたのは、西暦905年に撰進の勅命が下った「古今和歌集」である。

この直前の894年には、600年の第1回遣隋使以来、約三百年続いてきた遣唐使が廃止されている。この頃には、我が国の独自文明にも自信を深めて、唐から学ぶ必要はもうない、と判断したのであろう。

国字についても朝鮮と比較してみると面白い。朝鮮固有の文字ハングルは李朝朝鮮の世宗(セジョン、1418~50)によって作られた。しかし、世宗は周囲の反対を恐れて、せっかくのハングルを公表しなかった。

朝鮮では漢字、漢語が正式な言語として、史書、公文書、教育などすべてに用いられており、国語である朝鮮語は愚民の言語として蔑視されていた。したがって、中華文明にない独自の文字など作ることは、文化の退廃だと考えたのである。またそれは宗主国の明から反逆だと疑われる恐れがあった。

そのため第10代の燕山君は、1504年、ハングルの教授・学習を禁止し、所蔵してあったハングル文書を焼き払ってしまった。ハングルが朝鮮社会に復活するのは、日韓併合下で、清国の文化的影響から離脱させるために、朝鮮総督府が使用を奨励しはじめてからである。

(自主独立への気概)
以上、見てきたように、我々の先祖は数世紀をかけて、シナ文明から独立し、天皇号、元号、国号、国字と、独自の日本文明を築いてきた。この自主独立への持続的な気概は、特定の個人によるものというよりは、お国柄と言うべきであろう。

ひるがえって、現在の我が国の姿を見ると、この自主独立の気概はどうなったのであろうか。歴史教科書の表現をある新聞社が中国に密告し、抗議を受けた日本政府はあわてて謝罪するという姿勢は、独自の元号を使って大唐帝国皇帝に叱られた新羅王とそっくりではないだろうか。

また小渕政権が発足すると、経済対策をまずアメリカに持っていって了承を得たのは、高麗将軍・李成桂が明の皇帝に朝鮮王としての承認を求め、自国の名称まで決めてもらった態度と通ずる所がある。独立国の政府の公約とは、まずその国の国民にすべきものだ。

我々の祖先が、当時の超大国シナの圧迫を恐れず、数世紀をかけて冊封体制から離脱していった自主独立への気概を思い起こす必要がある。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

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