日本の桜の種類は固有種・交配種を含め300種以上の品種が確認されている。
代表的な品種には、山桜、枝垂桜、江戸彼岸桜、大山桜などがよく知られている。
しかし、日本(沖縄と北海道を除く)の桜の80%はソメイヨシノ(大島桜と江戸彼岸の雑種)だと言われています。
古来、奈良時代では花といえば、二月の節分から最も先に咲く「梅」が花の代表でした。しかし、菅原道真が遣唐使を廃止して、日本が大陸の天平文化から、徐々に国風文化が盛んになってくると「花」と言えば「桜」になってきたのでした。
記録による最古の花見は、平安時代812年に嵯峨天皇が神泉苑(京都の寺院)にて、「花宴の説」を催したと、日本後記に記述されています。
嵯峨天皇は、ことさらに桜の花が好きで、盛大な花見を行ったということでした。
また、平安末期の西行法師(1118ー1190年)が、「花」すなわち桜を愛した歌は特に有名です。
「ねがわくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月(もちづき)のころ」
「願わくば桜の下で春に死にたいものだ。釈迦が入滅した、旧暦2月15日の満月の頃に」という意味である。
西行法師は桜を愛し、約230首もの桜の歌を詠んでいる。その桜の下で死にたい、という望みを果たすかのように、実際に2月16日に亡くなり、世の人々はその不思議に驚いた。そして西行法師を弔うべく、墓の周囲に桜を植え、山全体を1,500本もの桜で覆った。
桜の咲く前から、今か今かと心待ちにし、天気はどうかとやきもきし、咲いては喜び、散っては惜しむ。さらには桜の木の下で死にたいとまで願う。日本人は昔から桜の花とともに生きてきたのです。
当初、花見は皇室や貴族の行事だったものが、時代を下るにつれ、鎌倉・室町時代には武士階級に広まり、江戸時代には一般庶民に定着したようだ。
ということは日本人の花見は1200年以上昔から続いていることになるのです。
こうなると花見は単なる宴、宴会だけではなくしっかりとした一つの日本文化なのです。
では、なぜこんなにも長い間日本の伝統的習慣として根付いているのだろうか。
一つには四季の変化が明瞭な風土ゆえ、春の訪れの象徴として桜が選ばれ、満開の桜の下で宴会を開くことが、春という季節を迎える行事(祝い事)になったのではないでしょうか。
「万葉集」には桜の歌が50首、歌い上げられています。
歌人や文人が愛した有名な桜の歌をご紹介しましょう。
「世中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし」(在原業平 825-880年)
「古今和歌集」に収録されているこの歌が、もっとも日本人の心をうまく表現しているのではないでしょうか。
「世の中に桜などなければ、春は心のどかに、過ごせるだろうに」という反語的な表現で、桜のことで落ち着かない心持ちを現している。
「久方の光のどけき春の日に しずこころなく 花の散るらむ」 紀友則 古今和歌集より
散り初めには、花の散りゆく様を惜しむ。日本人の桜を愛でる「やまと心」は千年前と変わっていない。のどかな春の日には桜を愛でる日本人が、一朝事あれば「義のための勇」を奮い起こして立ち上がるのも、その「やまと心」のゆえである。「漢心」では、桜を愛でることも知らず、「不義」も平気で見逃す国になってしまう。
「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」(本居宣長)
大和心(日本人の心)とは何かと人が尋ねたなら、宣長は答えました。
「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、そのうるわしさに感動する、そのような心です。」
日本人の心を、一瞬に凝縮された山桜の美しさにたとえたものなのでしょう。
また、宣長は「武士道とは、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本固有の華である」と述べている。この歌の「やまとごころ」、すなわち大和魂こそ、武士の精神であり、その大和魂は桜に象徴されると考えていたのである。日本の国花が桜になったのも、この宣長の歌に基づくものと伝えられています。
そして、日本人がこの桜の花が好きなのは、「花の美しさ」が「長く続かない」ところなのかもしれません。在原業平朝臣の歌と同じ古今和歌集に、世界三大美女の一人に数えられる「小野小町」の歌があります。
「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」(小野小町)
この歌にあるように、「少々の長雨を眺めている間」という、ごくごく短い間に「花の色は色あせてしまった」という歌です。まさに、花の美しい時期は一瞬で、そして、その美しさを残すことなく、すぐに散ってしまう。逆な解釈をすると、「雨が降って止むまでの間くらい短い期間で、花が散ってしまう」ほどはかないのが桜の花、と言うことになるのです。
このことから、日本では古くは「女性」の代名詞として「桜」が使われました。小野小町の歌は、まさに、「花の色」と言うように桜の花のことを詠んでいるように見えますが、同時に、自分の女性としての美しさのことを詠んだ歌としても解釈されます。「花」=「美しい」=「女性」という、美しい、しかし、その美しさはある意味では一瞬で消えてしまうものと言うことに、より一層の美しさを感じるのです。「今しかない」最高の美しさを感じると言うことは、まさに、桜にとっても人にとっても、最も良いことなのかもしれません。その「瞬間の美しさ」を日本人は非常に大事にしているのです。
外国の人は「もっと長い期間、美しい花を見たい」という事を聞くこともあります。しかし、日本人には美しいものをあまりに長く見ていると飽きてしまうのです。一瞬の「旬」を味わうことこそ「粋」であると感じるのです。美しい花を待ち、そして暖かい春に恋焦がれて、同時に、その光景を思い描いて、寒い冬を耐えているからこそ、花の美しさはより一層引き立つのです。また、その花が今しかないと思うから、その花を「目と心に焼き付けて」美しい記憶の中にしまっておく、そして来年また新たな桜の花を見ることを待つことができるのです。
桜では開花のみならず、散って行く儚さや潔さも、その美しさの中のひとつです。
「咲いているときの美しさがあるからこそ、散り際の潔さがより一層はかなく、また咲いているときの美しさを際立たせるものだ」という考え方があり、そして、女性、そして日本人の生き方そのものに大きな影響を与えたのが桜の花ということになるのではないでしょうか。
続きは後編になります。
---owari---
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