多くの日本企業がいまだに守り神を祀っている理由は?
(「神人共働」)
冒頭でトヨタの守り神の話をしたが、自動車もまた「結び」の産物である。土の中に眠っていた鉄鉱石が精錬されて鋼板となり、それが成形されて車体となる。その車体に、ゴムのタイヤや、ガラスの窓、プラスチックの内装品、織物のシートなど、多種多様な材料からなる部品が数万点も組み付けられて、自動車が産み出されていくプロセスは、まさに現代版「結び」の力そのものである。
このようにモノを生み成し、造り出す「結び」の力への信仰は、モノづくりを尊ぶ姿勢につながる。天照大神も、田の神の姿をした祖霊・穀霊も、そして皇居では天皇も、人々と共に働き、豊かな秋の収穫を目指す。この「神人共働」の神道的意識は、売上げや利益に関わりなく、モノづくりそのものが尊いのだ、という信念を醸成する。モノづくりとは、今も時々刻々に宇宙をより豊かなものへと創造しつつある神々の大事業に、人として参画することなのである。
旧約聖書では、アダムとイブは知恵の木の実を食べた罰として、神から楽園を追放され、額に汗してパンを得なければならない境遇となった。労働は神に追放された人間が、パンを得るためにやむなく、なさねばならない苦行なのである。ヨーロッパでは16世紀前半の宗教改革によって、ようやく労働は神が人間に与えた使命である、という労働観が一般化して、日本古来からの考え方に近づくが、それまではこの「労働=苦行」という考え方が主流だった。
古代中国でも、漢字の「労」は「苦労して働く」という意味のほかに、「疲労」や「心労」などの意味をもっていた。つまり労働とは、すなわち苦労や疲労、心労である、という考え方である。
(高度産業社会発展の原動力)
労働とは生きていくための苦行であると考えると、カネさえ得られれば、苦労して働く必要などない、という事になる。地道に働くより、一攫千金の投機に乗り出した方が利口だ、とか、早くカネをためて楽隠居しよう、とか、ひどい場合にはコピー商品で手っ取り早く稼ごう、などいう方向に走りがちである。これでは技術革新を通じて産業を高度化していく事を本質とする近代産業社会はなかなか発展しない。
それに対して、労働自体が尊いという日本古来の考え方では、工場の作業者は現場で地道に技能を磨き、商店主は商品の仕入れや並べ方に工夫をこらし、一財産をなした企業のオーナーでも、熱心に技術革新に取り組む。一人一人のこうした働きが高度な産業社会を発展させる原動力となる。
幕末に日本を訪れたペリーの一行は、日本のモノづくりの技術力に驚嘆して、開国後の「日本は将来きっと機構製品の覇権争いで強力な競争国の一つとなるだろう」と正確な予言をしたが、その背景には労働と技術を尊ぶ神代からの伝統があったのである。
(不良・故障は「ケガレ」)
モノづくりとは、神々が宇宙を作り出す「むすび」の過程への人間の参画である、と考えると、不良品を作ることは、神の足を引っ張る罪悪であるという事になる。不良品とは「結び」の力や方法が不十分なために、本来発揮できたはずのモノの生命力が引き出せなかった、ということである。それはそのモノの「生命」を粗末にしてしまった、という、まことに申し訳ない事なのである。
不良を出すことに罪悪感を覚える日本人の感性は、製品にわずかなキズや欠陥があっても恥と感ずる。それゆえに不良ゼロ、欠陥ゼロ、故障ゼロを目指して、あくなき努力を続ける。
日本以外の国々では不良とは単なる「経済的損失」に過ぎない。だから百円の不良をなくすために、百万円のコストをかけても改善に取り組む日本人の執念は非合理的としか考えられない。
しかし、こうした取り組みで不良の生まれるメカニズムが解明されれば、製品の信頼性を飛躍的に高める事ができる。自動車や飛行機、医薬品、食料品などでは些細な不良が人命事故につながりかねない。また銀行のオンライン・ネットワーク、新幹線、原子力発電所などでは、設備の故障が大規模な災害をもたらす恐れがある。ハイテク社会になればなるほど、製品の信頼性への要求が高まる。不良ゼロ・故障ゼロへの執念を持つ日本のモノづくりは、こうした先端技術分野で強い競争力を持つのである。
一方、消費者の方も、ちょっとしたキズや汚れにも実に過敏である。見事な「むすび」によって生み出された製品は、美しく若々しい生命力に満ちあふれたものでなければならない。そう信ずる日本の消費者は、ちょっとでもキズや汚れがある製品には、生命力、すなわち「気」が十分入っていない、と不満を感ずる。「気」が枯れている状態が、「気枯れ」すなわちケガレである。日本の消費者は世界一、品質要求が厳しいと言われるが、その背景にはこのケガレを厭(いと)う心理がある。
さらに不良や故障を徹底的になくそうという取組みは、より高度な製品を生み出す技術革新につながる。血管の4分の一の細さの「痛くない注射針」や、100万分の1グラムの歯車を作り出した中小企業があるが、こうした桁違いの技術力は、何よりも創造を喜びとする「むすび」の思想の賜である。
(モノづくりの国際競争力を支える神道的世界観)
かつての村落共同体では、人々は鎮守の森を抱く神社で、豊作を祈る祭りを執り行い、ムラとしての一体感・連帯感を養った。これも人々の間の「結び」である。
日本の生産現場では、不良ゼロを狙う小集団活動の発表大会が定期的に開かれ、良い成果をあげたグループを顕彰することを通じて、不良ゼロ・故障ゼロへの「祈り」を再確認する。これが、ムラの祭りと同様に、職場の連帯感を養う。
冒頭で述べた企業ごとの神事も、それぞれの神への繁栄と安全の祈りを通じて、連帯感を養うという意味で、ムラの祭りと本質的に同じである。
製品や技術が高度化すればするほど、多くの人々が連帯感で結ばれて、より緊密な連携を実現し、しかも一人ひとりがミスのない完璧な仕事をしなければならない。こうした人々の「結び」こそ、高度産業社会に不可欠な組織基盤である。
神道はキリスト教や、イスラム教、仏教のような明確な教義や戒律を持たない。我々自身も神道を宗教として信じているという自覚のある人は少ない。神道は宗教と言うより、一種の世界観であると言った方が良い。その世界観は「むすび」の思想にみられるとおり、最先端の科学技術ときわめて相性が良く、我が国のモノづくりの国際競争力の基盤を提供しているのである。こうした強みを、意識的に鍛え、発揮していくことが、我が国の産業競争力の強化に有効な道であろう。
2月11日は建国記念日。日本書紀によれば、辛酉(かのととり)の年(紀元前660年)の元日であるこの日、初代神武天皇が橿原の宮で即位された。企業の従業員が創業記念日に守り神への祈りをともにする事で、歴史を偲び、次代への使命感を新たにする。それと同じ事を国家レベルで行うのが、建国記念日の意義であろう。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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