現代人は実に多くの病気で悩み苦しんでいる。しかも医学が進歩すればするほど、病名も多岐(たき)にわたって、平均寿命が伸びるとともに、難病奇病も数多くなってくる。なかには病気のデパートのようになっている人さえいる。
しかし、真実は一つである。人体は、ゆっくりとではあるが、「川の流れ」のように変化し続け、同じ姿をとどめおくことはできない。心の力が自分の体をつくりかえていくことが可能なのだ。しかもその際、信仰心が強力なパワーとして働き始める。信仰の名の下(もと)に、理想的な自己像を心に描くがよい。ガンをはじめ、医学的に不可能とされる治癒(ちゆ)例が数多く現れている。
信じよ、さらば救われん。求めよ、さらば与えられん。
(病気は現状への言い訳や不満の代弁になっている)
今、日本では、医学が進歩して、大勢の病人が病院で治療を受けていますが、それと同時に、ある意味で、病気の人の数も増えています。
すなわち、「医学が進歩すればするほど、いろいろな病気が出てくる」という面が指摘(してき)できるのです。要するに、「研究が進めば進むほど、病気の分類が増えてきて、ある病名を告げられると、いかにも、そのような病気が実在するかのように思えてくる」ということです。
病院に通って診察を受ける側の人にも、とにかく、何らかの病名を診断してもらえると、ホッとするというか、安心するような状況があります。病名を言ってもらい、「自分は、こういう病気だったのだ」と思うと、それで、「自分は、どういう分類をされるべき人間か」ということが決まるからです。
別な言い方をすれば、病気であることが認定されると、「自分は、本来、こうあるべきだ」と思っているような自分でなくても構わなくなるのです。そういう意味で、お墨付(すみつ)きというか、医者から証明書が出ているようなものだと言ってよいと思います。
つまり、「何らかの病気である」ということは、「絶好調ではない。本来、自分が願うような状態ではない」ということを受け入れるための、非常に都合のよい条件になっているのです。
「病気であることを喜ぶ人がいるはずがない」と考えるのが常識なのですが、現実には、そうとは言い切れません。
大病院に行き、お年寄り同士が廊下(ろうか)ですれ違うときに話している言葉を聞くと、「どのような病気をしているか」ということで、お互いに病気自慢をしているのが現状です(現在の新型コロナ禍では状況は違いますが)。「どちらの病気が重いのか。どちらの入院期間が長いか。どちらのほうが、早く死にそうな、大変な病気に罹(かか)っているか」ということを、挨拶代わりに自慢しているのをよく聞くのです。
また、「病気が重い」ということは、それを心配すべきである家族に対して、「私に対する愛情が足りないぞ」という警告にもなっています。「おまえたちが十分に親孝行(あるいは、おじいちゃん孝行、おばあちゃん孝行)をしないから、今、このような病気になって大変なんだぞ」と言っているようにも見えるわけです。
そこで、私が述べたいのは次のようなことです。
本来、病気になって喜ぶ人がいるはずはないのですが、現実には、病気であることによって何かを訴えている人がいるのです。
その訴えとは何でしょうか。それは、自分自身が、今、社会的に認められるべき仕事をしていないか、尊敬されるべき立場にないことに関して、「病気である」ということが、家族や会社の同僚(どうりょう)たちへの言い訳、もしくは不満の代弁になっているのです。
「おまえたちが悪いから、実は、このようになっているのだ」ということを、病気の重さで示していることがよくあります。そのことに気をつけなければいけないわけです。
もちろん、「年を取り、行くべき所がないので、とりあえず病院にいる」という人も数多くいます。
小さい子供は保育所や幼稚園にいますが、一定の年を取れば、「とにかく、病院にいるのが安全だ」と考え、「万一(まんいつ)、ひどい病気になったときや死ぬときには、お世話になれるので、早めに病院にいる」という場合もよくあって、病院が、年を取った人たちの幼稚園のようになっている面もあります。
ただ、私は、「一度、考え方を改めたほうがよいのではないか」と言いたいのです。
---owari---
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