このゆびと~まれ!

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病気の背景にあるもの(後編)

2020年08月10日 | 人体
(人間は、運転手と車が一体になっている存在)
医学の進歩・発展は結構なのですが、西洋医学の考え方の基礎には、かっちりとした唯物論(ゆいぶつろん)、すなわち、「この世には物しかないのだ」という考え方があります。

西洋医学は、「物」対「物」、要するに、「物としての薬」対「物としての人体」という関係を研究しています。「物としての人体に、物としての薬が効くかどうか」という観点で見ているのです。

そこで扱われる人間の体は、どちらかといえば、「一種の機械である」と見られています。そして、「病気は機械の故障であるから、部品を取り換えるなり修繕(しゅうぜん)するなりしなければ治らない」という考え方が主力なのです。

それは、ちょうど、修理工場で車が修理されるような状況でしょうか。
病院では、「どこかの部品が傷んでいないか。電気系統や車体が傷んでいないか」などという観点で、いろいろな検査が行われ、傷(いた)んでいるところを取り換えるなり修繕するなりされるのです。そして、「ガソリンを入れる代わりに点滴をする」というようなかたちになっています。

人間が、ほとんど自動車扱いになっているわけです。
確かに、そういう面は、ないわけではありません。しかし、私が過去に述べているように、人間が「自分だ」と思っている体は、あくまでも乗り物にすぎないのです。

自分の体を車に見立てても構わないのですが、あくまでも体は乗り物であり、みなさんの本質は、その車のなかに乗っている運転手のほうなのです。そのことを、どうか忘れないでいただきたいと思います。

「車の性能がよいか悪いか」ということだけが、「よい運転ができるかどうか」ということにつながるわけではありません。みなさんは、カーレースの大会に出て賞を取るために、車を走らせているわけではないのです。

みなさんが乗っている車は、ほとんどの場合、それほど高性能ではなく、世間によくある、ありふれた車です。とりあえず用を足せればよく、隣(となり)の町まで走ってくれればよいぐらいの車なのです。そして、「運転が上手か下手か」ということで、事故が起きたり起きなかったりしているわけです。

みなさんは、あらゆる事故を避(さ)けられるような超高性能の車を持っているわけではありません。自動的に危機を察知し、障害物をよけるような高級車ではないため、居眠りをすれば必ず他の車や家などにぶつかります。

また、運転手が酒に酔っていれば、当然ながら、交通法規を守った運転はできません。これは当たり前のことです。

車自体に関心を持つのは結構ですが、あくまでも、乗っている人間の注意力や判断力、健全さ、智慧(ちえ)などが、健康に生きていく上では非常に大事なのです。

それほど高性能の肉体を両親から頂いていなくても、注意深く運転していれば、事故を起こさずに一生を送ることは可能です。そのことを、まず、前提として知っていただきたいのです。

特に、「先天性の病気で、生まれたときから体の具合が悪い」という場合には、確かに、生まれたとき、車に当たる部分に何らかの欠陥(けっかん)があったと思われます。

しかし、そうでなくても、中年期を過ぎると、体は傷みやすくなります。何歳から中年期と定義するか、それによって、喜ぶ人も怒る人もいるので、非常に言いにくいのですが、一般的には、35歳を過ぎるあたりから、体は傷みやすくなるものです。

それから先は、ときどき定期点検をして、「十分に機能しているか。故障がないか」ということを調べ、メンテナンスをする必要があるのです。
常識的には、そういうことが言えます。

以上が、このシリーズの導入部分としての一般的な考え方です。
まず知ってほしいのは、「人間は、単なる車ではなく、運転手と車が一体になって人生を生きている存在なのだ」ということです。

---owari---
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