(兵糧攻め、梯子攻め)
寄せ手は再び兵糧攻めの戦術に戻った。しかしいまだ4万もの大軍である。持参した米俵が次第に乏しくなってきて、河内の国のあちこちで現地調達をしようとしたが、売ってくれる者がいない。すでに正成によって買い占められていたのである。
やむなく、隣国の大和の国で糧食を調達して、千剣破まで運ぼうとすると、正成のあやつる山伏などに襲われる始末。かえって包囲している幕府方の方が、兵糧不足で苦しめられることとなった。
そこへ鎌倉の執権から急使が来て、「怠けておらず早々に城を攻め落とせ」という叱責の声が伝えられた。単なる力攻めでは犠牲を重ねるだけだ、何か良い戦術はないか、と軍(いくさ)評定をしていると、中国の戦史に出てくる雲梯(うんてい:雲のかけはし)を作って、直接山上に突入しようという案が出た。移動式の巨大な梯子(はしご)なら、どこに架けるか分からないので、敵も大石や大木を準備する時間がないはずである。
早速、京から5百人ばかりの工匠(こうしょう)を呼び寄せ、幅1丈5尺(4.5m)、長さ20丈余(60m)もの大梯子を作らせた。それを何十本という太綱で吊り上げ、木車を使って、絶壁にかける。「それっ」と寄せ手が一気に駆け上がろうとした所を、城内から大きな水鉄砲で油を浴びせかけた。滑って転落するものが続出した。そこに城内から火矢が浴びせかけられて、雲梯はたちまち燃え上がって、寄せ手の勇士たちを炎で包んでしまった。
(各地で宮方の旗揚げ相継ぐ)
しかし、こうしていくら堅固な城に立て籠もっていても、いずれは大石・大木も無くなり、矢種も尽き、食糧も食べ尽くしてしまう。籠城戦には時間を稼ぐことで達成される戦略目的がなければならない。
正成は千剣破城で、じっと待っているものがあった。これだけの幕府の大軍が、千剣破城に集結している事で、日本の各地の防御は手薄になる。そこを狙って、後醍醐天皇に心を寄せるもの、幕府に恨みを持つものが立ち上がるに違いない、というのが、正成の籠城戦に出た読みであった。
幕府方の大軍が攻め寄せたのが2月22日だったが、その翌日、山陰地方の交通交易を握って隠然たる勢力を持つ名和一族が後醍醐帝を密かに隠岐の島から救出して、船上山に設けた行在所(あんざいしょ)にお迎えしたという急報が届いていた。
雲梯が燃え上がった数日後には、帝をいただいた東征軍が京への進軍を開始したという知らせが届いた。また播磨の国で宮方の命を受けた赤松則村の軍勢は、幕府軍を打ち破って、京都に迫った。四国では伊予の豪族・土居道増、得能通綱が兵を挙げて、瀬戸内海の航路を押さえた。こうして西国での宮方の旗揚げが続くと、千剣破城を包囲していた幕府軍にも動揺が広がった。
(鎌倉幕府滅亡)
この中で宮方の勝利に決定的な働きをしたのが、足利高氏であった。足利氏は代々、将軍家・北条氏と婚を通じ、幕府における最高の一族として遇せられていたが、源頼朝の系統が絶えて後はほとんど唯一の源氏の嫡流であり、代々天下を取ることを宿願としていた。
赤松の軍が京都に迫って、高氏は京の防衛を命ぜられたが、後醍醐天皇に使いを派遣して帰順を近い、密書を各地の豪族に送って協力を求めた。そして赤松と連携して、京都六波羅の幕府の館を襲って、討ち滅ぼした。
六波羅陥落の報が届くと、千剣破城を包囲していた幕府軍は退却し、正成の軍はここに百日以上に及ぶ籠城から解放されて、今度は意気盛んに追撃戦に入った。
さらに関東では、これまた源氏の一族、新田義貞が兵を挙げて、鎌倉を襲った。これにより、鎌倉幕府150年、北条氏9代の権勢は滅び去った。
(正成の一途さ)
わずか千人程度の手勢で、幕府数万の大群を千剣破の山奥におびき寄せ、百日余にわたる籠城を成功させた正成は、まさに天才的な武将と言うべきであろう。
しかし、それよりも顕著なのは、時代の趨勢(すうせい)を見通す政治的見識であった。北条氏が元寇の際に示した無私な為政者としての姿勢を失い、尊大にして富貴に驕(おご)り、その政治は腐敗して公正を失っていた。天下の人心は鎌倉幕府から離反して、政治の刷新を期待していた。正成はこの情勢を正確に見通していた。笠置寺に逃れられた後醍醐帝の召命に即座に応じ、帝が隠岐に流されて、倒幕の見込みもまったく失せたと思われた時にただ一人反抗の狼煙(のろし)を上げたのも、この正確な情勢判断があったからであった。
しかし、正成がその後の日本人の心に長く生き続けたのは、その軍事的才能と政治的見識もさることながら、自らの名誉も富も顧みることなく、後醍醐帝に仕えた一途さにあった。
埋もるゝ身をばなげかずなべて世のくもるぞつらき今朝の初霜
とは、後醍醐帝が隠岐に流された時の御歌であろう。遠島に埋もれる御身よりも、世の曇りがつらいと、ひたすらに民を思う後醍醐帝の大御心に仕えまつることこそ、乱れた世を直し、民の安寧を実現する道と正成は信じたのであろう。
(七生報国)
後に、高氏が後醍醐帝に背き、九州に落ちた時、正成は高氏との和解を勧めた。源氏の頭領として、やがて高氏が権力を握るだろうとの、これまた正確な情勢判断だった。この献策が入れられず、京都に迫る高氏の軍を、正成は兵庫・湊川にて迎え撃つ。それは死を覚悟した戦いだった。
もし正成が名利(めいり:名誉と利益)を思ったら、この時に高氏について、室町幕府の大豪族として、栄華富貴は思うがままであったろう。しかし、正成の誠忠はそれを許さなかった。数万の高氏の軍と6時間余に渡る激戦を続けた後、正成は弟・正季と差し違えて自刃する。二人がからからと笑いながら交わした最後の会話は、次のような内容だった。
七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵(朝廷に敵対するもの)を滅ぼさばや(滅ぼしたい)とこそ存じ候らへ
この七生報国の精神は、太平記に語り継がれ、遙か後代の吉田松陰や坂本龍馬など幕末志士、そしてさらには特攻隊員に受け継がれていく。正成の国を思うまごころは幾たびも日本人の心の中に生まれ変わってきたのである。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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