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楠木正成 ~ 花は桜木、人は武士(前編)

2021年03月09日 | 日本
その純粋な生き様は、武士の理想像として、長く日本人の心に生きつづけた。

(正成一人いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば)
「鎌倉武士の近ごろの悪逆非道ぶりは、すでに天道のとがめを受けるほどでございます。その衰え乱れ、弱りはてたのに乗じてこれに天誅を加えるのに、何の困難がございましょう。ただ天下統一の業が成功するには、武略と智謀とのふたつが必要です。・・・

勝敗は合戦のつねでございますから、一時の勝負を必ずしもお気にかけられるには及びません。この正成(まさしげ)ひとりがまだ生きているとお聞きくださいましたら、帝の御運は必ず最後には開けるものとお考え下さい」

元弘元(1331)年8月27日、再度の倒幕計画が漏れ、後醍醐帝は奈良北東山中の笠置寺に逃れられた。そこで夢の中に大きな常磐木(ときわぎ:常緑樹)の南に伸びた枝が勢いよく張って、玉座を守っているという夢を見られた。木に南と書けば、「楠」となる。「このあたりに楠と称する武士はおらぬか」とお尋ねになって、早速召し出されたのが、河内の国金剛山の西麓に領地を持つ楠木正成であった。

すぐに参上した正成が、天下統一のための策略について問われ、申し上げたのが冒頭の答えであった。最後の一節のみ太平記の原文で味わっておこう。

正成一人(いちにん)いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば、聖運つひに開かるべしと、おぼしめ候らへ。

地方の一豪族からの天下の鎌倉幕府への大胆不敵な宣戦布告と言えよう。それから2年後の元弘3(1333)年5月の鎌倉幕府滅亡を経て、5年後の延元元(1336)年5月の湊川での自刃まで、正成のこの言葉通りの獅子奮迅の戦いぶりは、武士の理想像として、その後の日本人の心に長く生き続けた。

(赤坂城の戦い)
笠置寺は幕府の京都数万の大軍に攻められ、後醍醐帝は幕府に捕らえられてしまった。正成は河内の領内に聳(そび)える赤坂山に城を構えて五百の兵とともに立て籠もって旗揚げしていたが、関東からはるばるやって来た数万の軍勢が残る赤坂城に迫った。

急拵えの赤坂城は堀も満足になく、わずか1,2町(1~2百m)四方にやぐらを2~30ほど建てただけの粗末なものだった。寄せ手は、せめて一日たりとも持ちこたえてくれれば、恩賞に預かれるものを、と願った。

寄せ手の侍千人ほどが崖をよじ登り、塀にとりついて乗り越えようとした所、塀が倒されて崖下に転げ落ち、さらに上から大木大石を投げられて、7百余人が討たれてしまった。塀は二重になっていて、外側は見せかけだったのである。

翌日は用心して残る塀に熊手を投げかけて破ろうとした所、上から長いひしゃくで熱湯をかけられ、2、3百人が負傷した。寄せ手は攻めあぐんで、兵糧攻めに切り替えた。包囲が20日も過ぎると、正成は城内に大きな穴を掘り、先の戦いで塀の中で倒れた2、30の死体を中に入れて、10月21日の風雨の夜に城に火を放って、脱出した。

「城が落ちたぞ」と勝ちどきを上げて、城内になだれこんだ寄せ手は「なんと哀れなことだ。正成はとうとう自害して果てた。敵ながら弓矢とる武士として立派に死んだものだ」と褒め称えた。

(正成、再起)
こうして死んだと思われていた正成が突如、姿を現したのは、それから1年以上も経った元弘2年12月であった。すでに後醍醐天皇は隠岐に流され、側近たちの多くも死罪流罪に処せられていた。

そこに突如現れた正成は近隣の幕府方地頭を襲い、降伏した武士たちを自軍に従えた。さらに年が改まると、紀伊や河内和泉の幕府方所領を襲って、降伏するものはすべて麾下(きか:武将の家来)につけ、たちまちに2、3千騎の勢力に膨れあがった。正月19日には難波にまで進出して、幕府方5千の軍勢をさんざんに破った。

正成は謀略の面でも優れた才能を発揮した。近畿の交通の要所にはそれぞれ数名単位の山法師姿の部下を送り、聖徳太子の「未来記」には、「後醍醐帝が戻られて幕府が滅びる」と予言されている、と触れ回らせて、人心を動揺させた。

(天嶮(てんけん)・千剣破城(ちはやじょう))
正成の再起に、鎌倉方は動揺した。ほっておけば、幕府に不満を持つあちこちの輩が蜂起して、手に負えなくなるであろう。そうなる前に正成を討たなければならない。幕府は5万の大軍団を正成討伐のために送り込んだ。

正成はかねて準備していた千剣破城に立て籠もる。赤坂城からさらに10キロもの山奥にある金剛山の支峰であって、四方を50mから100mの深い断崖に囲まれた険阻な孤峰であった。周囲4キロばかりの頂上に、本丸、二の丸、三の丸、四の丸と階段状に何重もの砦が築かれていた。

食糧は十分貯え、空き地には野菜を作ってある。水は自然の湧水以外にも、大木をくりぬいた水槽を2、3百も作って、陣屋の雨樋から雨水を貯めこむ。籠城が何百日続こうと、水と食糧に関しては困らない用意が出来ていた。

(千剣破城の攻防)
このような奥まった所に、5万もの大軍が津波のように押し寄せ、周囲4キロにも足りぬ孤峰をぐるりと取り囲んで、千剣破谷を埋め尽くした。先手の一群が、まるで蟻の大群が砂山を登るように、びっしりと崖一面を埋め尽くして這い登り始めた。しかし城中からは何の防戦もしてこない。やぐらに翻(ひるがえ)る楠木の菊水の紋がはっきり見える所まで近づいて、「よし、一番乗りじゃ」と言った所で、大岩数十個が土煙を上げて転がり落ちてきた。

わざと各所に登りやすそうな道筋を拵え、そこに大岩を貯めておいたのだから、たまらない。圧死し、あるいは負傷した者の数は6千人にも上ったという。寄せ手は警戒して、兵糧戦に出た。城内から必ず水を汲みに降りてくるだろうと、名越(なごや)越前守が手勢3千人で近くの谷川に陣を張って待ちかまえたが、一向その気配がない。3日経って気も緩んで寝込んでいる所を、早朝の濃霧に紛れて、正成の手勢が急襲した。

たちまち数百人の死傷者が出て、他のものは命からがら逃げ延びた。その後、城中のやぐらに名越の紋所を染めた旗が立って、「やよ、寄せ手の方々、これこそ名越殿より頂戴つかまつった旗でござる。名越家の方々、これへおいで候うて、お持ち帰り願いたい」と大音声で呼びかけて来た。

名越越前守は「たとえ一族全滅するともこの恥辱をそそがぬわけには参るまい」と、大将以下5千人がまたもや断崖を上り始めた。そこに今度は直径3尺(1m)もありそうな大木が何十本となく降ってきて、4、5百人が押しつぶされ、浮き足だったところを上から矢が降り注いで、大半が討ち取られてしまった。

---owari---
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