(異性と隔離(かくり)することによって、人生に躓(つまず)くこともある)
孔子(こうし)の『論語』で言えば、「男女七歳にして席を同じゅうせず」ですから、「小学校に上がった段階から男女は席を並べてはいけない」ということになります。そのように、「話もしたらいけないし、席を隣(となり)にしてもいけないから、分ける」ということであれば、小学校時代から、男子校、女子校というようにキチッと分けなければいけないことになるでしょう。「それが道徳である」というのなら、今の日本の状況は、ほぼ違反していることになります。
もちろん、男女別学で、小学校からのエスカレーター校もありますが、そうしたところを除けば違反していることになるわけで、そこには、微妙(びみょう)に難しいところがあるのではないでしょうか。
確かに、異性と隔離することによって、一定の危険から身を護(まも)ると同時に、相手を理想化するような力も働いて、大人になってからの憧(あこが)れのようなものが出てくるという面もあります。しかし、一方では、逆に“免疫(めんえき)性”が足りなすぎて、人生に躓(つまず)くようなこともあるわけです。
実際、勉強をしすぎた結果、異性についての“免疫性”が低すぎたために、つまらない事件に巻き込まれたり、引っ掛かったりするようなことは後を絶(た)ちません。
こうしたことは昔からよくあります。普通に起きることをいろいろと知っておけば避(さ)けられたにもかかわらず、知らなかったために、現実に起きてしまうことがあるのです。
むしろ、こうした面については、渋谷辺りで遊んでいる人のほうが、人生通、人間通でよく知っており、「危(あぶ)ねえぞ」というようなことを言ってくれるかもしれませんが、それが分からないこともあるわけです。
このあたりについては、確かに、人生には「賭(か)け」という面があるようにも思います。
(成人年齢が時代相応に変動するのはやむをえない)
今は、選挙権年齢も二十歳から十八歳に引き下げられました(2015年6月改正公職選挙法が可決、成立)。
これまで、欧米では「十八歳で大人」としていたところを、日本では「二十歳で大人」としていました。それが二歳下がったわけです。
これについては、「ある意味では妥当なのかもしれない」と思いますが、いずれ、さまざまなものに波及(はきゅう)して、いろいろ下がってはくるでしょう。
しかし、昔の日本においては、例えば、満十三歳、数え年で十四歳、十五歳ぐらいになったら元服(げんぷく)していたわけで、今で言えば、中学二年生ぐらいで大人になる儀式(ぎしき)をしていました。要するに、それくらいの年齢ですでに責任が生じており、家督(かとく)を継(つ)ぐこともできたわけです。
そういうことも経験としてはあるので、「成人年齢が時代相応に、多少変動するのはやむをえない」という気はします。
もちろん、問題があれば、それを解決していかねばならないでしょう。ただ、神の摂理(せつり)のようなかたちで、「この年齢ならば、こうである」ということがあるかといえば、それほどはっきりしたものはないのではないかと思うのです。
そのため、今は、「経験則から見て、大多数にとって都合(つごう)がいいのは、このあたりである」というところで線が引かれているのではないでしょうか。私はそのように思います。
---owari---
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