江戸城大奥――たくさんの女たちが将軍一人にかしずき、俗世間から隔離された生活を送る男子禁制の世界。将軍の跡継ぎを産むためだけにこの世に存在したハーレム(後宮)である。
かつて、中国やイスラム諸国にも大奥に似た大規模なハーレムがあったが、こちらは王族たちが自らの権勢を誇示せんがためか、もしくは自らの快楽を貪(むさぼ)るために存在した。その点、同じハーレムでも大奥はまったく異質の存在だった。
江戸城大奥は徳川二代将軍・秀忠の時代に誕生した。家光が三代将軍に就任するや、家光の乳母であった春日局(かすがのつぼね)がこの大奥で絶大な権勢をふるったと記録されている。
六代将軍・家宣のころになると、「大奥法度(おおおくはっと)」などの法律で大奥の制度はすっかり確立された。武家や町家の娘たちにとって、嫁入り前に大奥に上がって奉公することは最高のステイタスと考えられ、希望者が続出したという。
大奥の広さは約6300坪。江戸城本丸御殿の実に6割を占める。この中に、様々な階級の奥女中が暮らしていた。俗に「後宮三千人」と言われたが、これは誇張だ。実際には多い時でも千人前後と見られている。
もっとも、将軍の正妻である御台所(みだいどころ)の世話をする奥女中だけで300人いたというから、あきれるほどだ。そうした奥女中には、トイレで御台所のお尻を拭く専門の係までいたという。
この「女の園」に足を入れられる男子は、医者という例外を除けば、将軍一人に限られた。世継ぎをもうけることはすなわち、将軍にとって最優先の「公務」と言えた。
将軍と褥(しとね)を共にできる女性は御中臈(おちゅうろう)と呼ばれる、若く美しい階級の奥女中から選ばれた。ときには、それ以下の低い身分の奥女中が将軍に見初(みそ)められて「お手付き」となり、翌日から一転して豪華な着物を身にまとい、昨日まで同じランクにいた朋輩(ほうばい)をあごで使うこともあったという。
そして、将軍の寵愛(ちょうあい)がいよいよ深まって子女を産むことにでもなると「お部屋様」と呼ばれ、高い身分とお手当てが保証された。まさに「玉の輿」である。八百屋の娘から美貌を見込まれて大奥に上がり、家光の子(五代将軍・綱吉)を産んで、最終的には従一位にまで昇りつめた桂昌院(けいしょういん)はその典型と言える。
このように、武家の娘であろうと商家の娘であろうと、大奥には一夜にして出世し権勢を張るチャンスをはらんでいた。それだけに大奥は陰険な派閥争いや嫉妬、中傷が渦巻く「女の魔宮(?)」だったのである。
こうした世界に類例のないハーレムが、秀忠の時代から数えて幕府崩壊までおよそ260年間、日本史上に存在したことは驚異の一言だ。幕府はこの千人の女たちを養うために、年間二十万両もの巨費を投じ続けたという。当時の武家社会がいかに血統を重んじたかを如実に物語っている。
---owari---
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