人類史上最古の木造建築として知られる法隆寺[奈良県斑鳩(いかるが)町]。ユネスコの世界遺産にも登録される世界的な建造物だ。法隆寺と言っても一つの建物を指すわけではない。五重塔などがある西院伽藍(にしいんがらん)と呼ばれる一郭と、八角形の夢殿などがある東院伽藍をあわせて「法隆寺」と呼ぶ。
法隆寺は7世紀初頭に聖徳太子が創建したとされる。西暦607年説が有力だが、それ以前という説もある。いずれにしろ、これが若草伽藍と呼ばれるものだ。若草伽藍は現在の西院の南大門近くに立っていた。ところが、670年に大火に見舞われる。
そこで再建されたのが、現在の西院である。残念なことに、肝心の再建年月日は今もって不明だ。ただ金堂が最も古く、ついで隣に立つ五重の塔とされ、どちらも7世紀後半であることは動かないようだ。
ということは、法隆寺西院は千三百年も前から変わらないたたずまいを見せていることになる。戦国乱世の荒波や幾多の自然災害、老朽化に耐え、美術的にもこれほど優れた建築物が現代に伝わったのは、驚異の一言に尽きる。
法隆寺再建説を巡っては、昭和に入って大きな論争に発展した。再建されたと主張する学者と、太子が建てた時のままであって非再建であると反論する学者が、どちらも譲らず、当時のマスコミも巻き込んで激しい論戦を展開したのである。
この論戦に終止符を打ったのが、昭和14年から実施された若草伽藍跡の発掘調査である。調査の結果、西院伽藍よりも古い建物跡が発見され、さらに、焼け焦げた瓦まで出土した。これにより、法隆寺(若草伽藍)は火災で一度焼失し、その後現在の法隆寺(西院伽藍)が再建された、と考えざるを得なくなったのである。
それにしても、千三百年もの永きにわたってよくぞ保存できたものだ。さぞや、良材を用いて、当時最高級の工法が採用されたのだろうと思いがちだが、これはちょっと違う。
同時代に創建された興福寺や東大寺のそれと比較すると、材料も工法もかなり見劣りするものだったという。それなのに、興福寺や東大寺は戦禍(せんか)に遭い、創建当時の伽藍を伝えていない。
法隆寺だけがなぜ、戦禍を免れたのか。結論を言えば、都から遠く離れた辺鄙(へんぴ)な土地に立っていたことが幸いした。事実、法隆寺はこれらの寺とは違い、歴史の表舞台に登場することは一度もない。常に、対岸の火事として戦禍をくぐり抜けてきたのである。
さらに付言すれば、法隆寺がほかの寺のように時の権力と密接に結び付かなかったのも、生き残った大きな要因だ。権力と結びついた寺はやがて政争に巻き込まれ、焼き討ちに遭ったりするケースが少なくなかったのである。
権力にすり寄らず、特定のスポンサーも持たない――この一貫した姿勢は法隆寺という寺がもともと、聖徳太子の遺徳をしのぶために大勢の人たちの浄財によって再建されたということと無縁ではない。
前述したように、立地の特異性に加えて、実は太子信仰を護持する一種の共同体によって、いつの時代も支えられ、こまめに修理・修復を繰り返してきたからこそ、法隆寺は千三百年の風雪に耐えてこれたわけである。
---owari---
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