このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

仏弟子の本懐を遂げよ

2021年07月03日 | 日本
本編は仏陀の言霊(ことだま)でつづられたものである。
恐るべき内容である。いまだかつて、かくのごとき激しく、かくのごとき力強く、かくのごとく深遠なるものはない。

仏典さながらの、仏陀の獅子吼(ししく)があり、また、人類史上空前の悟りが展開されている。
激し過ぎると評する方もいるであろう。難解すぎると嘆く人もいるであろう。もとより承知の上である。

本来、直弟子以外に語ってはならぬことを読者の皆様に供することとした。
永遠の神理は、永遠に伝えられねばならないからである。(1992年)

―――――――
私は、すでにさまざまな話をしてきたが、
それらの話は、あなた方自身が自分のものとし、
それを他の人びとにもお教えし、
その人が自分のものとしないかぎり、
救いにはならない。

私のこの説法は、私の説いている法は、
私の書物に書き記されているところの思想は、
ちょうどあの満月を
私の指がさし示しているのと同じであって、
私は月をさし示すことはできるが、
その月を見るのは各人であるのだ。

いまだかつて、私は
あなた方に月を見せることはできなかった。
さし示すことはしたが、
月を見せることはできなかった。
満月の美しさを見せることはできなかった。
それを見た者があれば、
それは己れの目で、己れの心で見たのである。
それが、この私の法を学ぶときに
大事な要点でもあるのだ。
私は法を示すが、私は神理をさし示すが、
その神理を魂の理解とし、そして己が人生を照らすのは、
あなた方一人ひとりなのである。

もし、
いや、もしという言葉はふさわしくはない。
きっと、
あなた方が今、この我が説く法を学んで、
魂の奥において真実をつかんだならば、
己れの目で満月を見よ。
己れの灯火(とうか)で道を照らして歩め。
そして、その暗闇の道を
自らの光で照らしながら歩んでいるときに、
手探りで進んでいる人を見たならば、
彼らにも教えてほしい。

あなた方が、どうやってその光を灯(とも)したのかを、
彼らにも教えてやってほしい。
あなた方は彼らを導くことができる。
ちょうど満月の相(すがた)をさし示すことができるように。
しかしその真実を会得(えとく)するは、
一人ひとりのものである。

けれども、自ら照らしつつ道を歩む者として、
その道の途上で光なく歩んでいる者を見たならば、
黙っていることを私は許さない。
彼らが、その光を自ら灯そうとするかどうかは、
彼ら自身のものであるが、
その光を灯す方法を、神理に到る道を、
神理をいかにしてあなた方の魂が会得したかを
語らねばならぬ。
語らねば、
私の法を、教えを、神理を、
学んだとは言わせない。
知ったとは言わせない。
神理は行じてのみ、
初めて己れ自身のものとなるのである。

それは単なる知識ではない。
空理空論ではない。机上の空論ではない。
比喩(ひゆ)でもない。幻想でもない。
それは、実際にやってみたらわかるものなのだ。
誰に強制されるのでもなく、
判定してもらうのでもなく、
己れ自身がわかるのである。
ちょうど銀の匙(さじ)が、
何度スープを運んで人の口にその温かい味を伝えても、
己れ自身はそのスープの味を知らぬように、
現にこの法を知り、悟りを得たと思うならば、
それを行じてみなければ自分のものにはならない。
決して自分のものにはならぬ。
銀の匙のように、
スープの味を知らないままに一生を終えることになる。
味わってみなければわからない。
味わうためには行ずることだ。

この教えが人類を幸福にするものであるかどうかは、
あなた方一人ひとりが、それを実践してみせればわかる。
実践してみせれば、
人が幸福になるかどうか、
己れが幸福になるかどうかがわかる。
聴く耳あらば、我が教えを実践せよ。
聴く心があらば、
我が声に耳を傾けたならば、
それを行じてみよ。
味わってみよ。
味わってみれば、
神裡とは何であるかがわかるであろう。

私が言いたいことはひとつ。
仏陀再誕の今、救世の号令がかかっている今、
その声を聴いたならば、
あなた方は伝道以外に生きる道はないということである。
人びとにこの神理を宣(の)べ伝えることだ。
我が声を伝えよ。
我が宣べ伝えるところの神理を人びとに語れ。
伝えよ、伝えよ、この神理を、この法を、
我が説くところの法を。

私は、日本人全員に神理を読んでいただきたい。
そして、翻訳(ほんやく)された神理が世界に広がらねばならない。
法を説くは師にあり。
法を弘めるは弟子にあり。
弟子の仕事であるのだ。

諸々の比丘(びく)、比丘尼(びくに)たちよ。
縁生(えんしょう)の弟子たちよ。
幾千、幾万の我が弟子たちよ。
今こそあなた方は、己れの使命に気づき、
仏弟子としての本懐(ほんかい)を遂(と)げる時に来ているのである。

この日本中に神理の旗が立つまでは、
あなた方の仕事に終わりはないと思うがよい。
全世界にこの神理が伝わることなくして、
地上の命を失ったならば、
その人生は失敗であったと思うがよい。
私もまた、決して退くことなく、
どのような批判や中傷が、
たとえ我が頭上に山のごとく積まれようとも、
断じて妥協するつもりはない。
これより後、前進あるのみである。
共にがんばってゆこうではないか。

---owari---
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人類救済の時 | トップ | 「自由」とは何か(前編) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本」カテゴリの最新記事