『海賊とよばれた男』(講談社文庫)にも触れておく。主人公の国岡鐵造(出光佐三)は、大東亜戦争の敗戦のわずか二日後、奇跡的に焼け残った社屋で、将来の生活に不安と恐怖を感じている社員たちを前に、こう号令する。
「日本は必ずや再び立ち直る。世界は再び驚倒するであろう」
「わが社には最大の資産である人がまだ残っとるじゃないか」
「愚痴をやめよ」
「ただちに建設にとりかかれ」
百田氏は、この作品を書くために集めた出光佐三の資料を読んでいて、このくだりを見つけたときには、体が震えるような衝撃を思えたという。
物語の見せ場は、昭和26年5月の「日章丸事件」である。
新聞では連日一面トップ記事だった。小説では国岡商店となっている出光興産が、油田を国有化したために英国などの怒りを買って海上封鎖されたイランのアバダンに自社で建造したタンカー日章丸二世を極秘裏に送り、ガソリンと軽油を満載して日本に無事寄港してのけた“事件”は、敗戦国日本の一民間企業が英米の巨大石油資本に挑んで出し抜いた快挙として、当時、国際的にも大きな注目を浴び、日本国民を勇気づけるとともに、のちの日本とイランの関係構築にもつながった。
出光佐三は明治18年に福岡県宗像郡赤間村(現・宗像市)で生まれた。昭和56年に95歳で亡くなったが、その生涯はまさに近代日本の実業人の気概に満ちていた。
日本が戦争に敗れたとき、彼はすでに60歳、その頃の平均寿命や栄養状況を考えれば現在の80歳に近いと思う。敗戦で会社資産のほとんどを失いながら不屈の闘志で再建し、日本の復興のために必死の努力をした。骨惜しみせず、死に物狂いで働いた。戦前から続く日本人の生き方そのものだった。
もちろん、出光佐三と同じような環境に育っても、誰もが佐三にはなれない。持って生まれた強烈な性格に加えて、佐三は、勤勉で厳格な父親に「一生懸命働け」「質素であれ」「人のために尽くせ」ということを教えられた。
そして神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に入ったことも幸運だった。当時の神戸高商は少数精鋭主義で、校長が横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)出身の水島銕(てつ)也という人物だった。
水島は、日清戦争に勝利した日本が、結局は三国干渉で遼東半島を清国に返還せざるを得なかったとき、国力は軍事力だけではない、経済力も含めた総合的なもので、そのためには国際的に活躍できる経済人をつくることが大事だと考えた。
それで銀行を辞め、神戸高商の初代校長となった。水島は家族主義を大事にし、学生たちとは息子のように、教授たちとは弟のように付き合った。佐三がのちに経営者になり家族主義を社是にしたのも、水島の影響だとされる。
そして水島のモットーだった「(経営者は)黄金の奴隷たるなかれ」という言葉を終生忘れなかった。あとで詳しく述べるが、今時のグローバル企業の経営者に聞かせてやりたい言葉である。
出光佐三は、従業員、その家族、郷土や共同体、ひいては「我が国」のことを考えた。字義のとおり「経世済民」(世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと)を実践しようと努めた経済人であった。
敗戦後に重役の一人が、会社の負担を軽くするために、社歴の浅い社員には辞めてもらうのはどうだろうと提案すると、佐三は「馬鹿者!店員は家族と同然である。社歴の浅い、深いは関係ない。君たちは家が苦しくなったら幼い家族を切り捨てるか」と、一喝する場面が『海賊とよばれた男』に出てくる。実際には自ら会社を去った者もいたが、佐三は、社員を一人も会社都合で馘首(かくしゅ)しないという方針を貫いた。
こういう経営者であればこそ、社員もそれに応えようと奮闘した。日章丸か日本を発ったとき、イランに向うことは船長と機関長しか知らなかった。船員たちは本当の目的地を知らずに出航したのである。
そしてセイロン沖で暗号電文を受信した船長が、「本船の目的は英国の海上封鎖を突破してイランから石油を積み出すことだ」と告げると、船員たちはたじろぐどころか、「日章丸万歳!出光万歳!日本万歳!」と叫ぶ。
百田尚樹氏は、こう語っている。
≪私は、この件を書きながら何度も泣きました。己一個の人生の充実、幸福なんてどうでもいいとは言いませんが、己一個を超えたところに繋がる人生がある。国岡鐵造(出光佐三)、そして鐵造を支えた男たちの凄さと、今の日本人は繋がっているのだということを知らせたかった。
それは宮部久蔵(「永遠の0」の主人公)の物語も同じで、孫の慶子、健太郎と宮部が繋がること、過去と現在の日本が断ち切れたままではなく、ちゃんと繋がらなければいけなかった。俺たちの祖父は狂信者ではない、苛酷な時代を懸命に生き、自分以外の誰かに人生を捧げたのだと≫
---owari---
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