(読書や仕事における「情報の絞り込み」の大切さ)
社会人になり、だんだん多様な情報を扱うようになると、それまでとは多少やり方が違ってくることもあるかもしれませんが、拡散しすぎたら、やはり、ときどきは絞り込むことです。重点的にしっかりと学ぶべきものは学び、参考程度で構わないものは、それなりで構わないとは思うのです。
例えば、雑誌の記者などになれば、流行の本も数多く読まなければいけないでしょうし、新聞も読まなければいけないでしょう。あるいは、テレビのニュース等も観なければいけないでしょうし、同業の雑誌もたくさん読まなければいけないでしょう。
ただ、雑駁(ざっぱく)とした知識が大量に入ってくるだけでは、生産性がなく、何も生み出すことができずに、「時間」と「お金」と「空間」ばかりを浪費するようになるケースが多いとは思います。
そういうときには、また、それなりの処理の仕方をする必要があります。
週刊誌の類(たぐ)いは、新聞広告等を読むと、ついつい買ってしまうことが多いかもしれません。ただ、その結果はというと、結局、広告の見出し以上のものはほとんど残らないというか、見出しだけを覚えれば、それで済むことも多いのではないでしょうか。見出しのほうは多少大きく出ていますが、それ以上のものではないわけです。
例えば、「土用の丑(うし)の日はウナギの蒲焼き」といった見出しだけを見たら、ウナギの匂いがしてくるような感じで「おおー」と思うかもしれませんが、買ってみると。それほど腰を据えて読みたいほどのものはなく、「新聞広告の見出しだけで十分だったかな」というようなところがあります。そのように、時間の無駄はいくらでも発生するわけです。
その意味で、情報が増えていくときには、次にはセレクト、すなわち「選んでいく努力」は要ると思うのです。
そうしたことは、仕事においてもあるのではないでしょうか。
必要に応じて、ときには仕事が拡散していったり多角化していったりすることも、どうしても出てくるわけです。ただ、そのなかで、「重要な部分は何か」「最後に残しておきたい部分は何か」ということを考える必要があるのではないかと思います。
---owari---
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