(偉人や英雄の活躍ではなく「民衆のうねり」と考える左翼史観)
いったん、戦前からの教育の否定を通したものの、やはり、それだけでは済みません。もう一度、「国民としての求められるべき道は、何なのか」ということを考え直す必要があるのではないでしょうか。
特に、学校の現場では、神様・仏様の教えを引いてくるのもなかなか難しいため、道徳では、それに代わるものとして、「時間がたてば神様・仏様になる人々」という意味での「偉人(いじん)」を出してきて、その生涯等に学ぶかたちを取っています。それが、基本的には多いと思うのです。
もちろん、偉人といっても、すぐ「神様」になってしまう人もいます。例えば、吉田松陰(よしだしょういん)のように、生誕約八十年で松陰神社が建(た)っている人もいます。あるいは、二宮尊徳(にのみやそんとく)についても、生誕から百年そこそこで、“二宮尊徳神社”(報徳二宮神社)がすでに建っているのです。
彼らは、もう神様になってしまっているので、「神様だ」と言われればそれまででしょうけれども、実在の人間だったことは事実であり、彼らが生きていたのは、“ついこの前”のことになります。
今、説かれている道徳のなかには、そうした実在の人間で、はっきり資料が遺っている方々の生き方を学ぶことで、宗教教育の代用をしようとする傾向が多いのです。
ただ、それに反発する人もいます。それは、いわゆる「左翼(さよく)史観」に染まっている人です。
特に、教育者のなかでも、日教組(にっきょうそ)系等には左翼史観の人が多いと思うのですが、そういう人は、すでに学生時代、つまり教育学部時代などに、左翼史観に染まっていると聞いています。
そして、彼らは、「明治の御一新(ごいっしん)(明治維新)」等について、「四民平等(しみんびょうどう)になり、みんな、“どんぐりの背比(せいくら)べ”で、新しい国をつくったんだ。身分制がいったん崩壊して、“チャラパー”になって、“ガラガラポン”になったんだ。それから、自分たちの自由意志でやっているうちに、新しい国ができてきたんだ」という考え方をするのです。
それでいけば、英雄史観のようなものを非常に嫌う傾向が出てくるでしょう。つまり、偉人とか英雄とかいうものを出してくるのをすごく嫌がって、「そんなものではなくて、民衆の全体のうねりで、そういうことが起きたのだ」というように持っていきたがる傾向が強く出るわけです。これが「左翼史観」です。
---owari---
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