(敗戦によって崩壊(ほうかい)してしまった日本的な道徳)
子供たちにも大きな影響力を持つテレビについて考えてみると、その情報の質はさまざまですし、正しいものも間違っているものも混在しているように思います。
そのような多様な価値観があるなかで、自分の考え方を確立し、さらには、「自分を律する心」など、本来、道徳で教えるべき内容を、どのように身につけていけばよいのでしょうか。
日本は先の敗戦後、日本の道徳は、いったん崩壊したと見てよいのだろうと思うのです。
確かに、戦前の日本には、日本的な道徳がきちんとありました。それは、「道徳」ではなく「修身(しゅうしん)」というべきかもしれませんが、そういう修身の教科書や考え方、「日本人かくあるべし。尊い日本人がいたのだ」という考え方があったわけです。
ところが、先の戦争における敗戦によって、それがいったん全部、崩壊しました。そして、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下に置かれてからあとは、アメリカ的価値観がかなり入ってきたのです。
その結果、イージー(安易)に流れた場合は、小学校であれ中学校であれ、民主主義的教育というものが行われ、「結局、多数決で決めれば正しいんだ。だから、あなたがたに任(まか)せるよ。多数決で決めてください。それが正しいから」といった感じになりました。そのように、道徳に代わるものとして、クラスの「多数決」風(ふう)の考え方が出てきたのです。
それと同時に、学校の先生のほうが、責任を取らずに逃(に)げる傾向が強くなってきたのではないでしょうか。
また、「価値観を押しつけるのは古いタイプの先生だ」ということで、そういう古い価値観を持っていた人たちが、先の敗戦を契機(けいき)にして、一斉(いっせい)に自信をなくしてしまいました。戦争が終わるまでは立派なことを言っていた方々が、みな、前言を覆(くつがえ)して、まったく正反対のことを言い始めたのです。
例えば、「鬼畜米英(きちくべいえい)」などと言っていたのから、急に、「アメリカ礼賛(れいさん)」に変わったりしたら、生徒の信用もまったくなくしてしまうでしょう。戦争中であれば、授業中に“内職”で、英語の本や小説を読んでいたりしたら、それを取り上げられて、ひどく怒(おこ)られました。しかし、戦後は全然、正反対のような感じになっていたりします。
やはり、「これでは、『信用しろ』と言われても、なかなか信用できない」という人が出てきたのは、理の当然であったのかなと思うのです。
---owari---
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