我が先人達が理想とした生き方は、西洋の現代心理学にも通ずる普遍的な智慧だった。
(現代心理学と「一燈照隅 万燈照国」)
筆者が講演の結びに必ず引用する言葉がある。「一燈照隅 万燈照国(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこく)」である。一本のロウソクはほんの一隅しか照らせないが、そのようなロウソクが1万本も集まれば国全体をも照らすことができる、という意味である。
もともとは最澄の「一隅を照らす 此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なり」(社会の一隅を照らす人は国の宝である)」を、昭和の陽明学者・安岡正篤(まさひろ)師がアレンジした言葉のようだ。
世の中には多くの問題があるが、それらは個人の力ではなかなか解決できない。だからと言って、無力感にとらわれるのではなく、一人ひとりが自分の周囲を照らし、そういう人が万と集まれば、国全体をも照らし出すことができる、という意味である。
これは、まさに国民の和の力で国を明るくする、という意味で「和の国」日本の国民の生き方を指し示す言葉である。この生き方に通ずる考え方が、オーストリアの精神科医・心理学者のフランクルの著書に書かれていて、驚かされた。
(「一介の洋服屋の店員」の生きる意味とは)
ある時、一人の青年がフランクルの所に来て、生きる意味について、こう語った。
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あなたはなんとでもいえますよ。あなたは現に、相談所を創設されたし、人々を手助けしたり、立ち直らせたりしている。でも、私はといえば……。私をどういう人間だとお思いですか。私の職業をなんだとお思いですか。一介の洋服屋の店員ですよ。私はどうしたらいいんですか。
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果たして「一介の洋服屋の店員」には生きる意味などないのだろうか? ここで思い出したのは、イタリアの洋服屋に入った時の私自身の体験だ。日本人駐在員から勧められた店がトリノの中心街にあって、ワイシャツを買おうとその店に入った時のことである。
対応してくれたのは、まるで貴族の家の執事のような品の良い身だしなみの50代くらいの男性店員だった。私の好みを聞きながら、ある柄のワイシャツを見せてくれた。それが気に入って買うことにしたのだが、彼はさらにこのシャツにぴったりのジャケットがある、という。
押しつけがましくもなく、自然な応対なので、私も気を許して「見てみたい」というと、店の奥から2,3着のジャケットを出してきて、着せてくれた。客のサイズを見極める眼力があるのだろう、いずれも私の体型にぴったりで、着心地抜群だった。
そのうちの一着、青い細かな格子縞の入ったジャケットは、今までの私の好みからすれば目も向けなかったデザインだったが、着て鏡を見ると、太った私がだいぶ着痩せして見える。思わず、これにします、と言ってしまった。
同様に、このジャケットに合うズボンはどうか、という事で、また2,3本出してくれた。グレーの無地のズボンが見事に合って、これも買うことにした。結局、ワイシャツを買いに行ったら、ジャケットからズボンまで買ってしまったのだ。しかし、値段は日本の中流店相当で、仕立ても良く、それから7,8年経つが、ここで買ったジャケットとズボンは今でも私のお気に入りである。
イタリアはファッション大国だが、デザインや縫製だけでなく、こういう目利きの「洋服屋の店員」たちが沢山いることが、その名声を支えているのだろう、と思った。こういう経験をした客から見れば、「一介の洋服屋の店員」だから生きる意味などない、とは絶対に言えない。フランクルは次のように指摘する。
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この男が忘れていたのは、なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。
大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。
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フランクルの説くところは、まさに「一燈照隅」すなわち「一本の燈火が一隅を照らす」という言葉そのものである。
(「その一燈でしか照らせない一隅がある」)
この後で、フランクルはこう続ける。
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各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれもがそうです。各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているのです。
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トリノの中心街の洋品店に飛び込んできた日本人客への対応は、その時、その場にいた彼にしかできない仕事だった。彼はその仕事を見事に果たし、その日本人客の好みの幅を広げ、イタリアのファッション界への敬愛を植え付けたのだった。
その店にその時、彼がいなかったら、私はちょっと覗いただけで、気に入ったものがないな、と出て行ってしまったろう。また別の店に入っても、これほど自分に合うデザインを勧めてくれなかったかもしれない。
「一燈照隅」には、「ある一燈は一隅しか照らせない」というだけでなく、「その一燈でしか照らせない一隅がある」という意味もある。その一燈がなければ、その一隅は暗いままである。それでは国全体を隅々まで明るくすることはできない。
(「処を得る」)
「ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能な存在」という事から、我々は自分自身の人生で自分独自の意味を追求しなければならないのだが、この点をフランクルは人体の細胞を例に説明する。
原始的な細胞は「万能」の機能を持ち、食べたり、運動したり、増殖したりできる。しかし、人間のような高度の有機体の中では、それぞれの細胞は互いに機能分化している。
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その場合、個々の細胞は、はじめの「完全」な能力の代わりに、代理不可能な機能を手に入れたのです。
こうして、たとえば、眼の網膜の細胞は、もはや食べたり、運動したり、増殖したりすることができません。けれども、網膜の細胞ができるたった一つのこと、つまり、視覚についていうと、いまでは、ずばぬけて見ることができるのです。
そしてこの特殊な機能において、眼は代理不可能になったのです。たとえば、皮膚の細胞、筋肉の細胞、生殖細胞はけっしてもう、網膜の細胞を代理できないのです。
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しかし、唯一の存在というだけで何らかの価値があるわけではない。たとえば、一人ひとりの人間は唯一の指紋を持っているが、その「個体性」だけでは、せいぜい犯罪調査くらいしか役に立たない。
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ひとりひとりの人間が唯一の存在であることに価値があるのは、人間の共同体という上位におかれた全体に関与することによってです。個々の細胞の機能が有機体全体にとって意味をもっているのとおなじです。唯一のあり方に価値がありうるのは、ただ、自分だけで唯一であるのではなく、人間の共同体にとって唯一である場合だけです。
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これは我が国の「処を得る」という理想に通じる。明治天皇は五箇条の御誓文と同時に発せられた御宸翰(ごしんかん、国民へのお手紙)の中で、「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」(すべての国民がひとりでもその処を得られない時は、みな私の罪であるので)と述べられた。
一人ひとりが自由な国民として個性的な能力と志を持ち、国家共同体の中で「処を得て」それぞれの一隅を照らしていく。明治維新が目指したのは、そのような国家であった。それはフランクルの言葉では「人間の共同体にとって唯一」の価値ある存在になることである。トリノの洋品店の店員は、そのような「処を得た」存在であった。
――(後編に続く)
---owari---
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