このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

和牛はなぜ美味しいのか(前編)

2020年09月15日 | 日本
訪日外国人の方が、和牛のすき焼きやしゃぶしゃぶ、焼き肉を食べて、ほとんどの人が、「うまい!美味しい!」と絶賛されています。彼らの感想を少しご紹介します。

・口の中が幸せでいっぱいだわ。口の中で熔けちゃった。このお肉は素晴らしい。
・オーマイガー!美味しい、口の中でとろける、クレージーね。
・神戸牛は口の中で熔けるとよく言うけど、本当にそうなのね。本当に最高ね。
・美味しすぎて泣いちゃう。ソーグッド。
・和牛はうわさ通りの美味しさだった。
・ジューシーでいいね。めっちゃ美味しい、ワオー!最高にうまいよ!

和牛の美味しさの秘密は何でしょうか。
その要素は「香り」と「食感」と「味」ですが、特には「香り」と「柔らかさ」が大部分を占めています。

和牛には、輸入牛にはない特有の甘くて芳醇な香りがあります。この香りを和牛香(わぎゅうこう)といいますが、松阪牛などはココナッツや樹木の香りがすると言われており、この香りがおいしさを感じるのです。

和牛香は霜降り肉に含まれるもので、外国産のお肉は霜降り肉が少ないので、和牛香がでないのです。食用にされている肉は数あれど、キレイなサシが入っている牛肉は、黒毛和牛の肉のみであることに気が付くのではないでしょうか。そしてその肉質は血統によって決まります。

(世界最高峰の黒毛和牛)
肉質の良いとされる和牛の中でも、特に黒毛和牛は、遺伝的な特性から、霜の降り具合、肉の色味、締まりなど肉質が大変良く、最高峰の牛肉と呼ばれています。黒毛和牛の肉は、キメが細かく光沢があり、よく締まった赤身で歯ざわりも滑らかです。

さらに、旨味の効いた脂肪が赤身の間に緻密に入り込んで、細かな霜(サシ)を降らせることで、柔らかく、口の中に入れると舌の上でとろけるような、まろやかな味わいに仕上がっています。この風味と柔らかさが、どの品種にも負けない黒毛和牛最大の魅力なのです。

神戸牛、松阪牛、近江牛、米沢牛などの黒毛和種の和牛は、実はルーツをたどると、一頭の和牛から産み出されたものなのです。そのルーツをたどる前に、和牛と名乗れる条件を皆さんはご存知ですか?

(和牛は「牛の品種名」)
和牛の定義は厳しく、和牛と名乗ることのできるのは、「黒毛和種」「褐毛(あかげ)和種」「日本短角種」「無角和種」の4品種の純血個体のみです。
黒毛和種・・・(神戸牛/松阪牛/近江牛/米沢牛など)
褐毛和種・・・(土佐牛・高知県/肥後牛・熊本県など)
日本短角種・・・(八甲田牛・青森県/たんかく和牛・岩手県など)
無角和種・・・(無角和牛・山口県)

和牛は、「明治以前から日本で独自に交配され、育てられてきた品種名」のことを指します。そのため、国産牛と違い、牛の出生地や肥育期間に関係なく、和牛品種のものは和牛と呼ばれます。

国産牛は、その言葉通り、「日本で生産された牛」のことを意味しています。日本での肥育期間が3ヶ月を超える牛、もしくは、日本での肥育期間が最も長くなる牛は、全て国産牛と呼ばれます。
そのため、生まれが海外のホルスタイン牛でも、日本での肥育期間が長ければ国産牛と呼ばれるのです。

神戸牛や松阪牛、近江牛などは黒毛和種のブランド和牛ですが、これらのルーツをたどると兵庫県但馬地方で育成されている「但馬牛」に行きつくのです。日本が世界に誇る和牛の生みの親こそ、のどかで自然豊かな但馬地方で育った一頭の「但馬牛」だったのです。

(日本での肉食の歴史)
それでは、ブランド和牛が誕生した経緯と日本での肉食の歴史を追ってみましょう。
日本は天武天皇の675年の肉食禁止令から明治維新までの間のおよそ約1200年間、(少なくとも表向きは)肉を食べてこなかった。

しかし、実は江戸時代でも肉食の歴史は残っている。
江戸市中には「獣肉屋」四谷の三河屋など、「ももんじ屋」と呼ばれる肉料理屋や獣肉専門店もありました。馬肉を「さくら」、猪肉を「ぼたん」「山鯨(やまくじら)」、鹿肉を「紅葉(もみじ)」などと称する隠語はこのときのものです。

「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助は、堀部安兵衛の父・弥兵衛に「大変滋養があるので」と牛肉を贈っていますし、彦根藩の井伊家は、毎年将軍家をはじめとする有力大名に「牛肉の味噌漬け」を贈っておりました。

幕末の蘭学者・緒方洪庵の日記にも「牛を解体して皆で食った」と記述が残っています。
15代将軍・徳川慶喜は豚が、徳川斉昭(慶喜の実父)は牛が大好きだったそうです。
明治の時代になって、一般庶民がすぐに牛肉食へシフト出来たのもこうした文化があったからだと思われます。

幕末、鎖国を打ち破る黒船が到来して開国となり、横浜に外国の領事館、商館、住居が建てられ、外国人向けの牛肉の調達が始まりました。近畿、中国地方の牛が神戸に集められて横浜へ。その牛肉が外国人の間でも話題となるほどの美味しさで、“コーベビーフ”と呼ばれていました。

江戸にも領事館が進出するに従い、近くに牛肉店、西洋料理店も出来ました。
やがて明治の初期には「牛肉は滋養に良い」と言う福沢諭吉の影響もあって、日本人向けに牛鍋を食べさせる店も現れたのです。

牛鍋は、江戸時代後期に人気のあった鴨鍋やぼたん鍋などの調理法を取り入れた鍋物です。
日本初の牛鍋屋は1862年(文久2年)横浜の「伊勢熊」というのが通説ですが、神戸や京都という説もあるようです。

明治時代に入り肉食が解禁されてからは、文明開化に伴って牛肉の需要が高まり、政府主導のもと、全国各地で地域牛の育種改良が進められました。より肉質の良い肉牛を求めて、様々な地域牛を掛けあわせた結果、食肉専用の和牛として現在にも続く「黒毛和種」「褐毛和種」「日本短角種」「無角和種」の4種が誕生しました。

それと同時に小柄な日本の牛を外国の牛のように体格の良い牛にしようと、品種改良(外国種の雄との交配)が盛んに行われていったのです。ところが、これが大失敗。気性が荒く、大食らいで、働かず、病気も多い、そしてなにより肉質がよくないという残念な結果となってしまい、但馬牛も含む和牛の純粋種が絶滅の危機に直面しました。

外国種との交配が失敗に終わった但馬牛でしたが、終戦後、元の素晴しい但馬牛を取り戻そうと、新しい血統の基礎作りが始まります。

この時、注目されたのが但馬で最も山深い標高700mの高地で飼われていた小代(おじろ)(兵庫県美方郡香美町)の*周助蔓(つる)の牛たちでした。ここでは、他の村からも遠く離れていて、外国種との交配を免れた純粋な小代牛4頭が奇跡的に残っていたのです。

---owari---
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 和歌の前の平等 | トップ | 和牛はなぜ美味しいのか(後編) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本」カテゴリの最新記事