水戸光圀(みつくに)が終生敬愛した人物に、楠木正成(くすのきまさしげ)がいる。正成は鎌倉時代末期の武士。後醍醐(ごだいご)天皇の鎌倉幕府討伐計画に呼応して兵を挙げ、湊川(みなとがわ:神戸市)で足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦って敗れるまで天皇擁護の姿勢を貫いた。
これが天皇に忠誠を尽くすという勤王思想信奉者だった光圀の心を打ったわけである。太平洋戦争以前は、正成は軍部によって祭り上げられ、忠君愛国のシンボルにされている。
正成が一躍名を高めた戦いに、史上空前の籠城(ろうじょう)戦と言われる「千早(ちはや)城の攻防」がある。正成はわずか千人余りの寡勢(かぜい)で山城に立てこもり、およそ百日間にもわたって押し寄せる鎌倉幕府軍十万と互角以上の戦いを展開したのである。
これほど無謀な戦いに挑み、しかも最終的に勝利したとも言える戦いをした例は、後の戦国時代にもない。
正成は武士と言っても、やや異質な武士であった。本来、大坂・河内の土豪(どごう:特定の「土地の小豪族」を指す)だ。水運を利用した運送業を生業(なりわい)とし、近畿一円の流通経済を支配していた。いわば「商人的な武士」である。
このころ、商品の流通が盛んになるにつれ、幕府は各地に関所を設け、税を徴収するようになっていた。正成には大打撃である。
そんな折、幕府の無策と賄賂(わいろ)政治に業を煮やした後醍醐天皇が、全国の武士に倒幕の蜂起(ほうき)を呼びかけた。これを聞き及んだ正成は河内で挙兵する。こうして正成は幕府軍との一年半の転戦の後、運命の千早城に立てこもる。1332年のことである。
千早城は大阪府の南部、奈良県と接するあたりにあった山城だ。標高660メートル、周囲は切り立った崖で、まさに天然の要害と言えた。それと分かっていても、攻めかかる幕府軍は大軍だ。「吹けば飛ぶような小勢でなにができるものか。ひともみでたたき潰(つぶ)してくれる」と、戦前はタカをくくっていた。
ところが、正成軍の抵抗はひと通りではなかった。砦(とりで)の上から大木や大石を転がす、石弓や投石機が出てくる。ときには敵の頭上から糞尿まで撒き散らしたと伝えられる。攻める幕府軍はそうした奇襲に戸惑うばかり。
当時の幕府遠征軍、つまり鎌倉武士にとって戦(いくさ)とは源平以来の一騎打ちが基本。戦場ではまず、自分の勇猛さや先祖の自慢を長々とアピールしあい、それからおもむろに一騎打ちを始めるというパターンが多かった。
ところが、武士とは言え半分は商人であり、実利的な面を持ち合わせていた正成の目には、そうしたパフォーマンスがひどく滑稽なものに映った。これは、体面を重んじる関東人と、現実的な考え方を好む関西人の違いでもあった。
この戦の模様を伝えている『太平記』にも、「やあやあ、われこそは・・・・・」と名乗りあげている間に、「問答無用」とばかりに正成軍の兵士によって弓で射殺される鎌倉武士の話が載っている。
いずれにしろ、こうした「えげつない」奇襲が功を奏し、幕府軍の間には、頭から糞尿を浴びてまで死にたくない、という厭戦(えんせん)気分が蔓延(まんえん)するようになる。そもそも、この時の遠征軍の大半が、幕府の命によって、嫌々参加した混成軍であったことも士気の低下につながった。
籠城が始まって七十日、幕府軍の有力武将だった尊氏が寝返り、倒幕の兵を挙げた。これが契機となって新田義貞などの倒幕勢力が各地で蜂起する。京都における鎌倉幕府の拠点であった六波羅探題(ろくはらたんだい)が尊氏によって壊滅させられ、その一報が千早城を取り囲む幕府軍にもたらされるや、幕府軍は一斉に退却を始めた。正成にばかり構っているわけにはいかなくなったからだ。
こうして正成は籠城百日にして山を降りた。この瞬間、正成は倒幕の英雄となった。十日も持たないと思われていた籠城戦が、これほど長引くとはだれが予想したであろう。結果的に、正成のこの奇襲の頑張りは、幕府に不満を持つ武士たちの決起を促し、倒幕の引き金となったのである。
その後の正成は、先にも触れたように足利尊氏と争い、1336年5月、湊川で壮烈な自決を遂げる。正成43歳であった。戦前から負け戦になることを予告していたと言われ、それでも天皇のために従容(しょうよう:おちついた様子)と戦に臨んだ正成の生き様はこののち日本人の心に永く残ることとなった。
*後醍醐天皇の信頼を受けた正成と、武士の長となった尊氏。二人が相対したのは、鎌倉から室町へと急激に時代が動いた時。天皇自ら政権を握ろうと目論んだ後醍醐天皇によって、二人の武将の運命は二転三転する。最後は雌雄を決する戦いとなった。
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以前から決まっていたので、
昨日具合が悪い中、車に乗ってるだけならばと上京。
皇居で銅像を見てきました。
馬といい、素晴らしい銅像ですね。
具合が良くなく歩き回れず、皇居はまたの機会にリベンジです。
ご訪問、有難うございます。
体調がお悪い中、上京されたのですね。
ご快復されましたでしょうか。
皇居の楠木正成公銅像は立派ですね。
東京美術学校(校長:岡倉天心)の教授であった彫刻家・高村光雲の指揮の下、教師の山田鬼斎、石川光明、後藤貞行など東京美術学校が総力をあげて製作したものです。上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と並び、「東京の三大銅像」の一つに数えられており、
10年を費やし完成したとのことです。
緊迫感あふれる表情や馬の血管まで精緻に描き出した武者像は外国人観光客の姿が引きも切らないと好評です。
お体をご自愛ください。
またのご来訪をお待ちしています。