今回のシリーズでは、上杉謙信についてお伝えします。
―――――――――――――――――――――――――
何か、附近で、異様な大声がしたので、ひとしく、そこに在った者が、うしろを振向いたとき、
「信玄っ、そこかっ」
と、巨大な猛獣に踏み股がった巨大な人間のすがたが、すぐ前に大きく見えた。
「あっ.謙信」
ここにいた者は直感したにちがいない。帷幕(いばく)のうちではあり、君側まぢかにいた人々はみな檜とか長巻とかの武器は持っていなかった。また一時に、
「すわ」
と、狼狽(ろうばい)した味方同士のあいだでは、太刀を引抜く間隔さえお互いに保ち得なかったので、
「おのれッ」
ひとりの法師武者は、そこにあった床几(しょうぎ:折り畳み式の腰掛け)を遠く投げつけた。
当たったか、当たらないか、床几の行方も知れない。ただ雨の如く杉の柴(しば:小枝)がこぼれ落ちた。その巨杉の横枝へ、馬上の謙信のすがたは支えられたかと思われたが、御身、一躍すると、もう混雑の人々の中へ放生月毛(ほうしょうつきげ:謙信の愛馬)の脚は踏みこんでいた。
「くわッ」
と、響きがした。
謙信のロから発した声か、振り下ろした小豆長光(あずきながみつ:謙信の愛刀)の音か、せつなに、一人の法師武者は、彼の切ッ先からよろよろと後ろに倒れ、陣幕の紐を断って仰向けに転がった。
しかし、それは、信玄ではない。信玄は、身を避けて、あだかも薮の中へ胴を潜めた猛虎のように、双の眼をひからせて、謙信のすがたを見ていた。
いや、その時が、それを見るというまもなかったほどである。謙信は、右覗きに、一太刀伸ばした体を左転して信玄のほうへ向けるや杏、ふたたび、
「かっッ」
と、さけんだ。
正しく、こんどのものは、謙信の腹の底から出た声である。信玄は突嗟(とっさ)に、右手の軍配団扇(うちわ)を伸ばし、わずかに面を左の肩へ沈めた。
しびれた手から軍配団扇を捨てた。そして大鳳(たいほう)が起つように身の位置を変え、太刀のつかへ手をかけたとき、謙信の二太刀目が、彼の転じたあとの空間を斬った。
その、せつなであった。
御小人頭の原大隅(はらおおすみ:信玄の中間頭)は、彼方に落ちていた青貝柄の槍を拾って、
「うわうっ」
と、噛みつくような声を放って駆けて来たが、主君信玄の危機、間一髪に、その槍で、馬上の敵を突き上げた。
謙信は、見向きもせず、
「信玄、卑怯なるぞ」
と、三太刀めを振りかぶりながら、馬ぐるみ、信玄の上に乗りかかろうとしていた。
右の腕に負傷した信玄が、その肘を抱えたまま、身を翻(ひるがえ)して、後ろを見せかけたからである。
その後ろ肩を臨んで、小豆長光のひかりが一閃(いっせん)を描いたが、ほとんど同じ一瞬に、放生月毛は一声いなないて竿立ちに脚を上げてしまった。余りに気の急いた為、一槍、むなしく突き損じた原大隅が、
「ちいッ」
と、ばかり反れ槍を持直して、謙信の馬の脚を撲(なぐ)りつけた為であった。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます