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第四次川中島の真の勝利は ④

2022年02月14日 | 歴史
今回のシリーズは、上杉謙信についてお伝えします。
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この永禄四年の川中島の大戦というものは、いったい甲越のいずれに真の勝利があったものか、武門はもちろん世上に一般の論議になり、ある者は、謙信の勝ちといい、ある者は信玄の勝利といい、当時からすでに喧(やかま)しい是々非々が取交わされていたらしい。

太田三楽入道(太田資正:おおた すけまさ。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。太田道灌(どうかん)の孫)は、戦国の名将として、妙なくも五指か七指のうちには数えられる兵学家の一人であるが、
その人の戦評として、次のようなことばが伝えられている。

「川中島の初度の戦(明方より午前中の戦況)においては、正しく十中の八まで、謙信の勝目なりと 言っても誇張ではない。陣形から観ても、上杉の先鋒(せんぽう)はふかく武田勢の三陣四陣までを突きくずしておる。

かつてその旗本まで敵の足に踏みこませた例はないと誇っていた信玄の身辺すら、単騎の謙信に踏み込まれたのを見れば、いかに武田軍が一時は危険なる波乱状態に陥入ったか想像に難くない。

有力なる大将たちも、幾人となく、枕をならべて集れ、信玄父子も傷つき、弟の武田信繁までが討死をとげたことは、何といっても惨たる敗滅(はいめつ)の一歩手前まで追いつめられていたことは蔽(おお)いようもない事実といわねばならん……けれど、後度の戦(午後より夕方まで)になっては、まったく形勢逆転して、十に七ツまでも、信玄の勝利となったは疑いもない。

この転機は、妻女山隊の新手が上杉軍の息づかれを側面から衝(つ)いた瞬間から一変したものであり、上杉方の総敗退を余儀なくされたのは、首将謙信自身、陣の中枢を離れて、一挙に速戦即決を迫らんとしていたのが、ついにその事の半ばに、敵甲軍の盛返すところとなったので、謙信の悲壮窮(きわ)まる覚悟のほどを思いやれば、彼の遺恨に対して一掬(いっきく:両手ですくうほどのたくさん)の悲涙なきを得ない。-しかし、このように双方を大観すれば、この一戦は、勝敗なしの相引というのが公平なところであろう」

太田三楽の戦評のほかに、徳川家康が後年駿府にいたとき、元、甲州の士だった横田甚右衝門とか、広瀬共演などという老兵を集めて川中島の評判をなしたことも伝えられている。

家康がいうには、
「あの折の一戦は、甲越ともに、興亡浮沈のわかれともなるところだから、軽々しくうごかず、大事取ったことは、双方とも当然といえるが、それにしても、信玄はちと大事を取過ぎている。

謙信が妻女山の危地に拠(よ)って、わざと捨身の陣容をとったことに対し、信玄は自分の智恵に智空(す)けの形が見えた。また、九月九日の夜半から暁にかけて、謙信が妻女山を降りて川を渡る半途(途中)を討つの計を立てていたら、おそらく越軍の主力は千曲川に敗滅を遂げたにちがいない。それを八幡原に押出して、相手の軍が、平野を踏んでから後を撃つ構えに出たのは、信玄に似あわしからぬ落度である。要するに信玄は、謙信の軍を観て、首将謙信の心事を観ぬくことが少し足らなかった」

なお、兵学家の一芸なども、いろいろあるが、総じて、三楽と家康の批評にほぼ尽されている。
ただ、なおここで、現代から観ていいうることは、信玄はあくまで物理的な重厚さと老練な常識を以て臨み、謙信はどこまでも、敵の常識の上に出て、学理や常識は想到(そうとう:考えがそこまで及ぶこと)し得ない高度な精神をふるい起して、この戦いをこれほどにまで善く戦ったということである。           

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川中島合戦の損傷を比べて見ると、
上杉方
 死者三千四百
武田方
  死者四千五百

この合戦のとき、信玄は四十一歳、謙信は三十二歳である。信玄は深謀(しんぼう)にして精強、謙信は尖鋭(せんえい)にして果断、実にいい取組みで、拳闘で云えば、体重の相違もなく、両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引分けになったのは、当然かも知れないのである。

---owari---
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