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大義にはつくが小義にはつかない、理想へは独往邁進 ②

2022年02月12日 | 歴史
今回のシリーズでは、上杉謙信についてお伝えします。
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由来、謙信は多感な質である。激しやすく感じやすい。二十歳ごろまでは、まま女のごとく泣くことすらあった。その前後には、多感なるばかりでなく、多情の面も性格に見られたが、翻然(ほんぜん:ひるがえす)、禅に入って心鍛をこころざしてから一変した傾きがある。

といっても、多情多感な性は、もとより持って生れたもの、禅によってそれが血液から失くなるはずはないが、その強烈を挙げて、将来の大志へ打ちこめて来たのである。大義にはつくが、小義にはつかない。

怒れば国の大事か武門の名かで、平常は至極無口になった。たいがいなことは、切れ長な瞼(まぶた)の辺で笑っている。ちと、壮年者には似あわないがそういう風格に変じて来た。

 そのかわり理想とするところへは独往邁進(どくおうまいしん:自分の信じる道をひとすじに進むこと)、着々と無言で進んでいる巨歩のあとが窺(うかが)える。そのもっとも偉(い:えらい)なのは、上洛朝拝の臣礼を、彼のみは怠らずにいることである。

 京都と越後との距離は、小田原の北条より、甲斐の信玄より、また駿府の今川家よりも、どこよりも遠かった。けれど信玄も義元も氏康も、各と自国の攻防と一身に気をとられて、まだその挙のないうちから、謙信は、天文二十二年のまだ弱冠のころに逸(いち)はやく上京し、時の将軍義輝を介して、朝廷に拝し、天盃を賜わり、種々の献上物を尊覧(そんらん:御高覧)に入れなどして、臣謙信の把(たば)ねる弓矢の意義を世に明らかにしていた。

 つづいて、おととし永禄二年にも上洛した。度々の彼の忠誠に、朝廷におかれても、御感悦はいうまでもなかったが、関白の近衝前嗣(このえさきつぐ)などは、ひそかに彼のために.案じて、「遠隔の地、こうお留守になされては、御本国の領も、さだめしお心もとないことでしょう。あとの御守備はだいじょうぶなのですか」と、訊(たず)ねたことがある。

すると、謙信は、
「ほかならぬための上洛。領土のことなど、一向に捨て置いてもかまいません」
 と、答えた。

---owari---
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