豊臣秀吉は城を築くのと同じように、城を攻めるのも得意とした希有(けう)な戦国武将だった。それは天才的ですらあった。秀吉の築城と言って、だれしも真っ先に思い出すのが「墨俣(すのまた)一夜城」(1566年)であろう。
尾張統一を果たした織田信長が次に美濃の斎藤氏と戦うことになった時、信長の命を受けた秀吉が木曽川対岸の墨俣に築城し、美濃への進出の橋頭堡(きょうとうほ:橋の対岸を守るための砦、攻撃の足場とする前進拠点)とした城のことだ。
この時、秀吉が採用した画期的な工事法は、現代のプレハブ工法に近いものがあったと考えられている。つまり、矢倉用や塀用などあらかじめある程度加工した用材を筏(いかだ)に組んで木曽川に流し、墨俣に運んだのである。
これなら工事現場で組み立てるだけで済み、大した時間はかからない。と言っても、一夜城はかなり大袈裟(おおげさ)だ。実際は7月5日~8月20日の47日間で完成させたという。
もう一つ、秀吉の一夜城と呼ばれる城がある。現在の神奈川県小田原市に築かれた石垣山城がそれだ。こちらは秀吉が天下人となってからの小田原征伐の時(1590年)、小田原城を見下ろす山頂に築かれた。秀吉は4万人からの人出を集め、昼夜交代制で休みなく働かせたという。
これは単に工事を急がせるためではなく、籠城する小田原勢に対する示威行動でもあった。
昼夜を分かたず槌(つち)音を響かせば、城に籠もる小田原勢の恐怖心はひと通りではなかったはずだ。記録によると完成に80日間を要したという。墨俣城とは規模が違うからだが、それでも当時の常識からすれば驚異的なスピードだった。
一方、秀吉が指揮した攻城戦で有名なのが、1582年4月、毛利に味方する備中(現在の岡山県)高松城を攻めた合戦だ。秀吉の攻城戦の特徴は無理押しをせず、籠城した敵の糧道を絶ち、干乾(ひぼ)しにするという持久戦を得意としたことだ。この高松城攻めでもその作戦がとられた。それも、ただ城を取り囲むのではなく、何とも秀吉らしい破天荒なアイデアが実行に移されたのだ。
高松城は東西と北の三方が沼地に囲まれ、南には足守川(あしもりがわ)が流れていた。文字通り、天然の要害であった。その城に城主の清水宗治(むねはる)以下、五千の兵が立て籠もっていた。秀吉は城の地形を逆手に取ることにした。
城の周囲にぐるりと堤防を築き、せき止めた川の水を流し込んだのである。梅雨時だったことも秀吉軍に幸いした。みるみる城は湖に浮かぶ小島のように水浸しとなっていった。
このときの土木工事は後の世の語り草となるほど壮大なものだった。5月8日に始まって、最終的に長さ約2.8キロ、高さ7メートルにも及ぶ巨大な堤防を19日間という短さで完成させたのである。
救援に駆け付けた毛利軍も為す術(すべ)もなく見守るばかり。孤立無援となった宗治は6月4日になってとうとう降伏、濁水(だくすい)の中にこぎ出した小舟の上で切腹して果てるのである。
もしもこの時、宗治や毛利軍が2日前に起こった「本能寺の変」を知っていれば事態は大きく変わっていたであろう。秀吉の持って生まれた運の強さと言うほかはない。
---owari---
私は戦国武将が大好きです
考えや、戦略、構想などが現代の世でも通じるところがあります
商売も何となく似ています
人材もそうですね
このようなコメントをいただき、ブログ投稿の励みになります。
日本の歴史は豊富な史実がたくさん残されています。
天才戦術家の源義経、武田信玄と上杉謙信の戦い、天下布武の織田信長、世界最大級の合戦・関ケ原、忠臣蔵・赤穂浪士、天才写楽、三百年の治世が育んだ江戸文化、と数えればきりがないほどです。
その中で、戦国武将にまつわるお話はとても興味深いものが多いですね。
これからもご訪問よろしくお願いします。