兄弟の結束を説いた「三矢(さんし)の教訓」で知られる毛利元就(もうりもとなり)は、日本合戦史上に残る奇襲戦を成功させている。西国の覇権をかけて当時西国随一の大名、陶晴賢(すえはるかた)と戦った「厳島(いつくしま)の合戦」がそれだ。わずか四千の兵力で五倍の二万人の敵を壊滅させるという、まさに離れ業を成し遂げたのである。
「厳島の合戦」は1555年に起こった。舞台は日本三景の一つに数えられ、広島県南西部の広島湾に浮かぶ周囲30キロの小島、宮島である。
当時、厳島は瀬戸内海航路の守護神として信仰を集める一方、物資輸送の重要な中継地でもあった。同年9月21日、二万の大軍を率いた晴賢がこの厳島に渡り、島の北西部の海岸近くに立つ宮ノ尾城に攻撃を開始した。宮ノ尾城は元就が陶軍をおびき寄せるためにわざわざ築いた城である。
陶軍が集結したのを見届けるや、毛利軍四千はただちに行動を開始した。9月30日夜、大風が吹き荒れ、叩きつけるような雨の中を船で渡海、闇に紛れて島の裏手に上陸する。
敵の背後に回って陶軍の本陣を見下ろす山に陣を構えた毛利軍。夜明けとともに、陶軍本陣めがけて突撃を開始する。前方からは宮ノ尾城を守る兵も襲いかかり、この挟み撃ちによって陶軍は大混乱に陥ってしまう。
将兵らは我先に活路を求め海上へ逃れようとしたが、そこに待っていたのが、毛利軍と同盟を結んだ村上水軍だった。こうして西国の雄、陶晴賢が率いる二万の軍勢は毛利・村上連合軍によって壊滅したのである。
この合戦での陶軍の戦死者は四千七百人にものぼった。いかに激戦であったか想像できよう。晴賢自身も海上に逃れようとしたが、船が得られず、八方ふさがりの中で自刃している。「厳島の合戦」の5年後に、織田信長の「桶狭間の合戦」が起きている。
源義経の「屋島の合戦」にしてもそうだが、この三者に共通して言えるのは、千載一遇の好機を見逃さなかったということだ。その好機とは、すなわち「荒天」である。
強風と豪雨の中、まさか敵が攻めてくる心配はあるまいと思うのが人情だ。そんな油断しきっているところへ突撃してくれば、恐怖心から攻め寄せる敵兵の数は実際よりも何倍も多く感じたことだろう。
歴史を動かす英雄というものは、こうした天が与えた偶然に一度ならず後押しされるものなのである。
---owari---
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