今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。
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蒲生氏郷(がもう うじさと)は証拠として、伊達政宗が書いた一揆煽動の文書を提出した。こういうふうに証拠がそろっていては、いい逃れることはできまいと思ったのに、政宗は堂々といい抜けた。彼は、
「確かにその文書の文字はわたくしのに似ておりますが、判が違います」
といった。
「判が違うというのはどういうことだ?」
きき返す秀吉に、政宗はこう答えた。
「わたくしの判は、鳥のセキレイをかたどっております。そのセキレイの目に、小さな穴をあけております。お手元の判のセキレイには、目に穴があいておりましょうか?」
「この政宗から、殿下や浅野どのに差し上げました書簡の花押は、セキレイの眼がことごとく開いております。ところが、須田の倅(せがれ)が蒲生(がもう)どのに渡した方のセキレイはみな盲目、それでもおわかりなされませぬか」
「なんだと…ほう、これはいちいちセキレイの眼のところに針で小さな穴があいておる。なるほど、こっちの文にはそれがない」
「かかる不心得者が出まいものでもないと、これは乱世の大将の心がけ、政宗自筆のものには誰も気づかぬよう、みな、その眼があけてござりまする。筆跡などは似せようとすれば似せ得るもの。しかし、この鶺鴒の眼の有無は、この政宗よりほかに家中の誰も知りませぬ」
「ウーム。治部(じぶ:石田三成のこと)、これを見よ。なるほど、こっちの芯は眼がないわ」
「そ、それは、しかし、前もって疑いのかかったおりのため…」
「黙らっしゃい。前もって、その用心をしてある…」
と言いかけて、秀吉はニタリと笑った。
ここでまた彼は、彼らしい好みの自問自答をしだしたのだ。
(三成の言うとおり、これは臭い…)
しかし、これでちゃんと一応の言いわけは立ってゆくのだ。万一露顕(ろけん)の場合を考えて、ずっと前から正式の書類の花押には針で穴をうがっていた…としても、これは、尋常(じんじょう)の者にできる用心ではない。
「なるほど」
秀吉は、もう独眼の前へ二種の書類をかざしてみながら、
「こうしてみれば真偽はわかる。それを蒲生はその方に見せて、すぐさまわしの手もとへ訴え出た。つまり臆病者だというのだな」
「御意のとおり」
「そればかりか、木村父子を一人で救い出し、名生の城へ差し届けてやっても、まだ疑うて城を出ず、今度は人質を出せと申したか」
「政宗は、それも笑って容れました。叔父と従弟を質に出し、ようやく黒川城へ引き揚げさせた。それでも叛心(はんしん)ありと思し召しますか」
「その方にすれば、蒲生のやり口はひどく歯浮い。それで堂々と燭台(しょくだい)を造らせて…」
「武人の心掛けを教えてやる気になったので」
「政宗!」
「はいッ」
「これで秀吉を、ことごとく瞞着(まんちゃく:ごまかすこと)できたとは思うなよ」
この知恵は片倉景綱(かたくら かげつな:伊達家の家臣)が前もって吹き込んだものだ。もちろん、秀吉が手にしていた文書は、伊達政宗が書いたものである。が、発見されたときのことを考えて、こういう手を打っていたのかも知れない。
しかし、一揆によっても豊臣秀吉軍を防げなかった伊達政宗は、以後、秀吉に仕え、さらにポスト秀吉になった徳川家康の忠節な部下大名に変わってゆく。これは時代の流れだ。
片倉景綱がナンバー2として偉かったのは、この“時代の流れ”をきちんと受け止めていたことである。
「この時代の流れの中で、伊達政宗が生き残っていくためにはどうすればいいか」
ということを、彼はいつも考えていた。
政宗にしても、自分の性格をよく知っていたから、事に当たると、すぐ前へ出ようとする悪癖(あくへき)があることをわきまえていた。そしてそのたびに、
(それを止めてくれるのは景綱だ)
と思っていたのである。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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