⑭今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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陽が暮れはて、牡丹雪の舞うなかで、徳川勢の苦難に満ちた退陣がつづいていた。
家康を護衛する旗本の精鋭は傷つき疲労し、ほとんどが馬を失っていた。
本多正信の弟正重は、追撃する敵と白兵戦(はくへいせん:敵と接近し、刀や剣槍などの武器を交えて戦うこと)をかさねるうち、身に十四創(そう:きず)を負い、あやうく首を掻(か)かれるところを、家康が矢を放ち、助けた。
家康の嫡男(ちゃくなん)信康の臣、松平康安(やすやす)は、槍、鉄砲の名人として知られた剛の者で、敵に馬を射られ、徒歩でしんがりを固めていた。
彼は苦戦をかさねるうち、身に数創を負い、胸に敵の矢二本が命中した。
「これしきの痕(こん)が、何ほどのこともあらずか」
彼は具足の前胴をつらぬき、胸に刺さった矢の一本を痛みに堪えて引き抜き、いま一本を抜こうとしたが容易に抜けず、敵が追い迫ってきた。
康安の従者は、歩行もおぼつかない彼の様子を見て、主を失った馬を曳いてきて乗せ、退却していった。
だが四、五町も後退するうち、顔見知りの岡崎の町役人右衛門七に呼びとめられた。
「康安さま、それがしは膝(ひざ)を斬られ動けませぬ。なにとぞお情けをもって、馬をお貸し下されませ」
右衛門七の右膝は四寸ほども斬り割られ、骨が露(あら)わに見えていた。
康安はわが創を忍び馬を下り、右衛門七に与え退却させた。
徳川勢がようやく浜松城に近い犀ケ崖(さいががけ)の辺りまで退いてきたとき、武田勢の武将、城意庵景茂(じょういあんかげもち)と玉虫次郎右衛門が軍兵を率い、急襲してきた。
満身創痍の家康旗本勢は、ことごとく引き返し、敵に当ろうとした。
このとき浜松城の守将夏目吉信が、手兵三十余人とともに駆けつけてきた。後は敵に向い馬を返そうとする家康を、押しとどめる。
「一挙の勝負に命を捨てたもうは、匹夫(ひっぷ)の勇(思慮分別なく、血気にはやるだけのつまらない勇気のこと)にござりまするぞ。進退ともに身を全うし、後日の勝利を謀るこそ、御大将のなさるべきこと。この場にはそれがしが踏みとどまり、御身替りとなりまするゆえ、御免」
彼は馬を下り、家康の乗馬を浜松のほうへ向け、長柄の槍で尻を叩き走らせたのち、敵に向い高声に呼ばわった。
「われこそは三河守ぞ。首取って手柄といたせ」
十文字檜をふるう吉信に率いられた夏目隊は、武田勢の包囲のなかで全滅した。
家康が浜松城に近づくにつれ、従う護衛の人数は、成瀬正一らわずか四、五人となっていた。
雪の降りしきる闇をついて、六、七騎の敵が追ってきた。成瀬らは皆徒歩であったが、檜をふるい、馬上の敵を突き落す。
武田の一騎は槍を構え、家康に向う。家康は馬を返し弓をとって敵を射殺した。敵は家康らのいきおいに辟易(へきえき:勢いや困難におされて、しりごみすること)して逃げ去った。
家康はようやく浜松城を目前にするところまで、戻ってきた。彼は西方の名残口(なぐり)から城に入ろうとしたが、追撃の敵勢が迫るのを警戒し、深沼と溜池が左右に迫った北向きの玄獣小口から入城する。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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