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義昭と共に上京も焼き尽くした

2024年11月28日 | 歴史
⑮今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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義昭(足利)は信長の予測の通り、和議をはねつける。彼は意外に迅速な信長の襲来に動転しているが、あとへはひけない。
戦闘がはじまれば、寡勢(かぜい:少ない軍勢)の幕府勢は敗北を免れないであろうが、そのときは洛南に逃れ、逆賊信長追討の軍をふたたび催(もよ)おそうと、覚悟をきめていた。

フロイスたち宣教師にとって、信長が京都に到着した三月二十九日は、一五七三年四月三十日にあたり、「主の御昇天の大祝日」であった。
信長が突如、まったく人々の予想を裏切って、わずか十数騎を従え、洛外四分の一里の地にあらわれると、あとを追う軍勢はたちまち洛外に充満したと、フロイスは記す。

四月三日、信長は洛外の堂塔寺庵をのぞく民家に放火し、洛中の義昭を脅(おびや)かす。
「このうえにても、上意次第たるべき旨、お扱(あつか)いをかけられ候えども、御許(おんもと:貴人の居場所)客なきの間、御了簡及ばれず」と「信長公記」に記されている。

義昭の意向しだいで、和平に応じようとの呼びかけは、焼討ちの火焔(かえん)天を焦(こ)がす有様にもかかわらず、無視きれた。

洛中洛外の住民は、大恐慌におちいった。フロイスは本国への書信にその状況を伝えている。
「信長の使者は、公方さまもし和解せずば兵力をこぞって来り、都を焼き、火と血にゆだねんと決したる旨を告げたり。当市に於(おい)て起りたる騒擾(そうじょう:集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱すこと)の非常なりしことは、尊師想像せらるべし。庶民はただちに家財をあつめ、一日に千八百または二千の荷物の都を出で、兵士らはあるいは都のうちにて、あるいは街道に於て、隊をなし家財を掠奪(りゃくだつ)し、または槍、銃を用いてこれを奪いたり。当市には金銀絹及び茶の湯の高価なる道具など、相当なる富ありしがゆえなり」

信長は麾下(きか)将兵に、放火掠奪を許していた。
京都の住民が悲惨な戦禍をこうむるのは、義昭が幕府の最大の助力者である自分を、抹殺しようとの暴挙をあえてしたためであると、信長は世間に知らせようとしている。

義昭を頂点とする、京都の有力者たちのうちに、信長を成りあがりのいなか大名、熟しきった無花果(いちじく)と蔑視(べっし)する思いがひそんでいるのを、信長は知っていた。

三月四日、信長は上京に放火した。
「信長公記」には、みじかく記されている。
「翌日また、御備えを押え(二条城を包囲して)上京御放火候」

宮中女官の日記である「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」にも、簡単に触れられている。
「きゃうちゅう(京中)にわかに大やけにて、かみきゃう(上京)うち野になる。のふなか、むらゐ(村井貞勝)みまひにまゐる。この御所の御あたりはかたく申しつけてめてたし」
御所附近への放火は厳禁されていたのである。

上京放火についての事情を、もっと詳しく記しているのは、フロイスの書信である。
信長が上京を焼いたのは、義昭へのみせしめだけではなく、市民に対する複雑な事情がからんでのことであった。
「上及び下の都(上京、下京)の住民は、日本六十六カ国の頭にして名誉ある都を焼くときは、被害全図に及ぶがゆえに、極力これを焼き払わざらんことを信長に請い、上の都はこれがため銀千三百枚を、下の都は五百枚を信長に、三百枚をその部将に贈りたり」

上京、下京の宿老たちは、信長に大枚の銀を贈り、焼討ちしないよう懇願した。
だが、交渉の段階で、上京と下京の代表者たちの態度に相違がみられたと、フロイスはいう。
上京には幕臣、公家たちが住んでいる。町人たちも富裕な商人が多かった。絹織物の生産にたずさわる分限者(ぶげんしゃ:金持ち、物持ち)の彼らは、信長の力量を過小に評価していた。

「われらの主は無限の御慈悲をもって、キリシタン全部の居住せる都の部分(下京)においては、交渉の手段をあやまたず、謙遜(けんそん)服従及び好情(こうじょう)をもって信長を動かすことを、得させ給えり。上の都(上京)の人は富み、かつ傲慢なるがゆえに、条件をよくしてかえって信長の不快を招き、ことに建築に着手せる宮殿の周壁を破壊したることにより、その怒りに触れたり」

上京の住民は、信長の御所修築の工事に何らかの不満があり、義昭挙兵を知って、さっそく周壁を破壊する行動に出た。
信長はそのような動きを、見逃しはしない。

「そこで信長はついに下の都の希望をいれ、これを焼かざるべしとの書付を与え、その軍隊に対してはもし害を加うる者あらば、厳罰に処すべしと達し、また住民を困ばいせしめず、信長去りたるのちに公方様圧迫を加うることなからんため、銀八百枚を免除せり」

信長は下京の代表者に、贈り物をすべて返却し、焼討ちを免ずると約束した。
上京に対する信長の憤怒(ふんぬ)は、激しかった。

「上の都の人々は、信長が彼らに回答を与えず、また献納したる銀千三百枚にすこしも頓着せざるを見て、彼らは内心傲慢なりしがゆえに、心中これを憤(いきどお)りたり」
富裕な織物業者や金貸しの牛耳っている上京は、義昭とあい通じる、思いあがった旧勢力の温床である。

麾下軍勢の兵粮(ひょうろう)、軍需品調達の市場である下京を焼けば、信長の今後の軍事行動に支障をきたすが、上京を焼いたところで何らの痛棒(つうぼう:痛烈な打撃)も感じない。
上京が破滅をのがれようとの懇願はついにしりぞけられた。

(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)

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