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命のビザ ~ ユダヤ難民を迎えた人々(後編)

2023年03月18日 | 日本
命からがら欧州から脱出してきたユダヤ難民たちを迎えたのは、敦賀の人々の温かい思いやりだった。

(「本当にうれしそうだった」)

同じく当時10歳ほどの少年だったレオ・メラメド氏は、記憶をたどって、こう語っている。

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さて、我々の天草丸が敦賀港に近づくと、雪に覆われた周囲の山々が眼前に迫ってきましてね、実にきれいな景色でした。冬だというのにとても暖かく感じましたね。それもそのはずです、零下何十度という極寒のシベリアからやって来たのですからな。・・・

人々は麦わら帽子をかぶり、雪かきをしておったようです。私が抱いた印象はとても素朴で、親切そうでしたよ。
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ユダヤ難民を乗せた船の到着は日本の新聞で報じられており、それを読んだ母親が10歳の少年を連れて、港まで見に行った。少年は後にこんな手記を残している。

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小さな貨物船でユダヤ人が甲板一杯にいた。見ていて海に落ちるのではと私は思った。上陸はまだしていなかった。うれしそうに話をしていた。男・女・子供の声が聞こえた。本当にうれしそうだった。にぎやかだった。甲板の人が気づいて自分たちに手を振ってくれた。そのときにはわからなかった。今考えると生涯で出会った最高の笑顔だった。
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(「リンゴを一口かじっては後ろへ回して全員で食べていた」)
昭和16(1941)年2月24日に敦賀に上陸したサミュエル・マンスキー氏は、こう回想する。

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・・・敦賀は私たちにとってはまさに天国でした。街は清潔で人々は礼儀正しく親切でした。バナナやリンゴを食べることができましたが、特にバナナは生まれて初めての経験でした。
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また「ユダヤ人が港から敦賀駅まで歩いて行くときに、リンゴを一口かじっては後ろへ回して全員で食べていた」光景を記している人もいる。港についた難民たちに、リンゴやバナナなどを配った少年がいたらしい。港近くの青果店の少年が、父親の指示で持って行ったようだ。

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少年がリンゴなどの果物を、ユダヤ難民に無償で提供したという話があるが、この少年は私よりも6歳年上の兄(当時13~14歳)だと断定しても、ほぼ間違いないと思う。・・・

私の記憶では、当時でも店にリンゴ、みかん、乾燥バナナなどが沢山あったように思う。・・・

それにしても、兄の考えで篭いっぱいのリンゴなどの果物を持ち出せないので、これは敦賀とウラジオストックを行き来していた父親が気の毒なユダヤ人難民のことを知っていて、兄に指示して持って行かせたのだろうと思う。
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父親は敦賀とウラジオストックの間を行き来していたというから、おそらくは天草丸に乗り合わせ、ユダヤ難民の惨状を直接見て、こんな措置をとったのだろう。

(身につけている時計や指輪を)

ユダヤ難民は港から敦賀駅まで歩いたのだが、駅前ではこんなこともあった。

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昭和15~16年頃、私は県立敦賀高等女学校(15~16歳)に通っていた。南津内(現・白銀町)の実家は駅前で時計や・貴金属を扱う商売をしていました。港に船が着くたびに、着の身着のままのユダヤ人が店に来て両手で空の財布を広げ、食べ物を食べるしぐさをして、身につけている時計や指輪を「ハウ・マッチ」と言って買ってほしいとよく来ました。

父は大学を出ていて、英語が少し話せたのですが、訛りが強いのか筆談で話をしていました。そして沢山の時計や指輪を買っていました。ユダヤ人はそのお金を持って駅前のうどん屋で食事をしていました。

また、父はユダヤ人に店にある食べ物を気の毒やと言ってよくあげていました。私も持っていたふかし芋をあげたこともあります。
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難民たちは垢だらけで臭いので、銭湯の「朝日湯」が一日休業して、彼らにタダで使わせたが、その身体があまりにも汚れていたので、後の掃除が大変だった、という逸話も残っている。

(「一視同仁」と「八紘一宇」)
こうして難民たちは、敦賀の人々から温かい歓迎を受けた後、神戸や横浜に移動し、そこからアメリカその他の地へ旅立っていった。命からがらの旅を数ヶ月も続けて来た後に、日本人たちから寄せられた親切は心に染み入っただろう。

敦賀での難民受け入れの事績を調べている井上脩氏によれば、敦賀はウラジオストックとの定期航路が開かれてから、異国情調が漂う町になり、

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加えて、昭和初年頃から、「一視同仁(いっしどうじん)」や「八紘一宇(はっこういちう)」の精神が強調された教育が徹底して行われたこともあって、敦賀は難民の受け入れに適応した“人道の港”としての環境が整っていたのだと思います。

当時、小学校では生徒に対してユダヤ難民に関し、あの人たちは自分の国がないため世界各国に分散して住み、金持ちや学者や優秀な技術者が多い。今は戦争で住むところを追われて放浪して落ちぶれた恰好をしているが、それだけを見て彼らを見くびってはならないと教えていました。

こうしたこともあって、上陸した難民たちは市民から差別の眼差しで見られることもなく、また厳重な警戒や規制を受けることもなく自由に市内を行動していました。
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一視同仁(すべての人を分け隔てなく慈しむこと)と八紘一宇(国全体が一つの家族のように仲良くすること)を根本精神とする皇室を戴く日本人は、「日本の天皇が私たちを守ってくれるだろう」というユダヤ難民の期待を裏切らなかったのである。
 (文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
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