⑧今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
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島左近は関ケ原の合戦で、かなり老体でありながら猛列に戦って、壮烈に死んだ。
石田三成は、島が生きていたころから、こういう評判を立てられた。
「石田三成にふさわしくないものがふたつある。それは佐和山城と、島左近だ」
つまり、
「トップからもらう給与は、いい部下を養うための費用だ」
と考える三成は、人間だけでなく、自分の城も立派につくったからである。つまり、いってみれば〝身分不相応〟の城と部下を持っていたということである。
だから、関ケ原の合戦に負けて、徳川方の井伊軍が佐和山城を徹底的に破壊したとき、佐和山城にはなんの財産も残っていなかった。本丸の三成の居室は実に粗末で、
「これが大名の住まいか?」
と、井伊軍があきれるほどだったという。
それほど三成は、自分の給与を徹底的に豊臣秀吉のために使い果たしていたのである。
そして、その石田三成が佐和山城でナンバー1だったとすれば、それを支えたナンバー2の島左近も、最後まで三成に尽くし抜いた人物だといっていい。これもまた戦国時代の美談のひとつである。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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