(「大人かどうか」の基準 ➁ ――金銭面で見極めがつくか?)
それから、二つ目は、金銭面です。
お金の面では、子供が「小遣(こづか)いが欲しい」と思う程度の感じ方であるとか、貯金したりしなかったりとか、どこで何に使ったのかが分からないとかいうような話は、幾らでもあるでしょう。
しかし、「大人になった」ということであれば、そういうレベルを超(こ)えて、「一定の採算感覚や、あるいは、けじめといったものが分からなければ、おかしいと言えます。
もちろん、家庭を持っている人の場合には、家計感覚もあるでしょう。
それから、人生全体の計画に基(もと)づく経済的な面での見取り図、つまり、自分自身のだいたいの実感として、「このくらいの感じでいけるかな」ということが見えているか、見えていないかは大きいと思います。やはり、これが見えないという人というのは、一定の比率でいるのです。
金銭的なものは、この世的と言えばこの世的にも見えるのですが、やはり、知恵の面があります。黒字で怒(おこ)られることはあまりないのですが、それがどうしても分からない人、要するに、金銭感覚のところで、いつも赤字感覚を持っているタイプの人は、いつまでも親に小遣いをねだる子供のようなものなのです。
そういう人は、今、多いように思います。なかなか職に就(つ)けない人やフリーター、あるいは職を失う人も多いので、そのあたりが、なかなか成長し切れない面があるのではないでしょうか。
また、逆に今度は、六十歳以降の人生設計においても、そこの部分が試(ため)されるところはありますし、もしかすると、その試しは五十歳ぐらいからあるかもしれません。「五十歳以降をどのように生きていくか」という感覚を試されるところはあると思うのです。
なかには、「自分で考えても分からないので、占(うらな)い師に占ってもらう」というような人もいるかもしれません。占い師に「私は何歳まで生きますか」と訊(き)いて、それをもとに、「あと幾(いく)らあったら、いけるか」を計算するという感じでしょうか。「あなたは、あと何年で死にます」と言ってもらえたら、その年数で生活費を割り出してみて、「これだけあればよい」というのを算出するというかたちもあるかもしれません。
ただ、占い師のほうは、見料(けんりょう)として千五百円から二、三千円ほどもらえば、それで十分であり、その後に対する責任はないので、結果が違(ちが)っていたとしても、「あなた、三千円で人生が決まるわけがないでしょう」と言って、それで終わりでしょう。「三千円は私の労働賃金です」ということで終わるでしょうから、責任を持ってはくれないと思います。
そういう意味で、職業選択や、あるいは、その職業のなかでの自分の仕事の確立のところで、大人かどうかが問われるわけです。また、金銭感覚というのは、一生を貫(つらぬ)いて、ある程度、出てくるものではありますが、一定の年齢、経験を経(へ)るにつれて、見極(みきわ)めがつくようにならなければおかしいでしょう。
これは、夫にも妻にも言えることですが、「家計簿(かけいぼ)的な計算ができないような人の場合は、苦労が続く」というのは、ほぼ間違いありません。また、家計簿レベルでの計算ができないのであれば、はたして、会社の大きなお金を動かせるかどうかも、不思議なところではあります。
確かに、一部にはできる人もいるのです。特殊な専門知識があり、「他人(ひと)のお金なら動かせる」という人も、なかにはいます。
ただ、会社の場合は、複数の人たちが見てはいますし、たいてい、上司がいて、必ず、ダブル、トリプルでチェックがかかってくるようになっているので、それほど簡単に独走できるわけではないでしょう。
---owari---
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