釈迦仏教では「執着を捨てる」ということで、よく教えを説きました。
これは 思想的で宗教的で哲学的な課題ではあるんですけれども、
しかし 実人生を生きるうえでも大事なことなんですよ。
人が悩むのは、たいていの場合 執着なんですね。
「あれも欲しい これも欲しい」なんですよ。「あれもこれも欲しい」んですよ。
あれもこれも欲しくて、それがお互いに矛盾しているんです。
たいていの場合 矛盾しているんです。たとえば「酒は飲みたいし 家庭も大事だし」という、
このようなものです。
早い話がね。「酒がやめられない。毎晩酒がやめられない。飲まずにいられない。人生 酒がなくなったら暗闇だ」ということで、酒がやめられない。しかし「家庭も大事だ」と。「家庭を失っても困る どっちか」と。矛盾していますね。こんなことばっかりです。
それ以外にもいっぱいありますけれども、矛盾するようなものなんです。 結局はですね、もっと単純に言えば、「何を捨てるか」の問題になるんですよ。最後はね。
だから 積極的に「何を手に入れるか」というようなことで、みんな頑張りたがるんですけれども、仏教的に攻めれば、今度は「何を捨てるか」の問題。これは執着の問題と一緒ですね。
結局「何を捨てるか」なんです。何か捨てたら 実は幸福になるんですね。
やはり選択ですから「何を捨てるか」ということをやはり考えなければいけないです。
たいていの場合は矛盾するんです。苦しむ理由は欲があるからです。いろんな欲がある。
いろんなものを手に入れたい欲があって、それがお互いに相反するからですね。だから「何を捨てるか」という観点も大事です。問題が大きくて苦しんできたら、たいてい執着が大きくて「あれもこれも欲しい」と思っているからなんですね。それがお互いに矛盾するんです。
人生なんでもやりすぎると、みな矛盾することになっているんです。持ち時間も限られていましてね。その持ち時間を何に使うかということなんで。矛盾したものがいっぱいあるんです。どれも楽しいんです。どれもいいこといっぱいあるんです。いっぱいあるんですけど、ダイヤモンドいっぱい懐に入れたら、重すぎて歩けないんです。だから選ばなければいけないんですね。
選ぶには「どれが最高か」という選び方もあるけれども、「何を捨てるか」という選び方だってあるんです。だから「どれが最高か」という選び方は難しいかもしれないけれども、執着で苦しんでいるんでしたら「何を捨てるか」と。
捨てるのは捨てられるんですよ。これは 川で舟に乗ってて積み荷が重かったら、捨てざるをえないでしょう。舟が沈むと思えば 、大事な大事な家財道具だって捨てていくはずでしょう。だから「何を捨てるか」ですね。 悩んで苦しかったら、捨てるものを決めなきゃいけないんですよ。
捨てたら楽になるんです。その分だけ。だからどうしても「どれを取るか 持っていくか」苦しくて苦しくてしょうがなかったら 、「何を捨てるか」逆にね。「何を捨てるか。いま何を捨てたら いちばん楽になるか」ですね。これを考える。
だいたいの人は捨てなきゃだめなんですね。捨てたら その分だけ執着が減って楽になります。苦しくなくなるんですね。 やっぱり人はね 地位を求めたり名誉を求めたり財産を求めたり健康を求めたりですね、またその他いろいろ 職業上のいろんなものを求めたりですね、なんだかんだと いろんなものを欲しいものなんですね。
危機の時になったら やっぱり 捨てていかなきゃいけないことがあるんですね。 何を捨てるかですね 何を捨てるか。だから「何を捨てるか」ということになったら、けっこう自己判断できますから。自己判断できる。
「何を捨てるか あなたは何を捨てますか」 ということですね。「何を捨てていきますか」と。服を一枚一枚脱ぐように「何を捨てていきますか」ということですね。これを考えれば悩みはまた ある意味で減っていきます。「何を捨てるか 捨てられるか」これを考えることですね。
---owari---
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