(「プロの自覚」をすることによって人間は強くなれる)
「弱い」「強い」というのもずいぶん主観的なものでありまして、自分で思い込んでいるだけということはあるんですね。自分で思い込んでいるだけ、「弱いんじゃないかな」と思い込んでいるだけというのはずいぶんあります。
例えば、赤面恐怖症の人もいます。顔が真っ赤になり、人前で話すことが苦手で、気が弱い人です。けれども、人前で話さなければならない場合、「仕事だ」と割り切ることによって強くなるということはあります。「これが自分の仕事なのだ」と思ったら、もうしかたがありません。
それは、やはり「プロの自覚」です。プロの自覚で、「自分はこういう仕事をやらないといけないのだ」と、あるいは、仕事でないところであっても、「こういう使命があるのだ」とプロの自覚をすることによって強くなれるのです。人間はそうだと思います。
お相撲さんだって、ほとんど気は弱いのではないでしょうか。おそらく気が弱いと思います。あのように太って大きな体の方は、気が小さいことが多いのです。けれども、土俵に上がったら鬼のようになっていきますね。やはり、あれは仕事だからそうなるのだろうと思います。
実際、そういうときに思うことは、他人は自分のことを全部は分からないということで、それを知ることが一つの“安全パイ”なのです。すべてを見透かされるのは、たまったものではないけれども、分からないのです。言っていることと表情でしか他人は分からないのですから、「自分のことは、全部は分かりはしないんだ」ということです。
もし、背広の後ろが破れていても、見えなければそれまでです。見えるのは前だけです。そう思って、「全部は分かりはしないんだ。こういう仕事なんだから、自分は仕事としてそれをやるんだ。あるいは、使命としてこれを与えられたからやるんだ」ということで、もう割り切っていくことです。役柄として割り切っていく。
会社仕事でも、結局そうだと思います。課長だ、部長だ、社長だといるけども、内面がどうかは分かりません。気が弱いかもしれません。気が弱いかもしれないけれども、肘掛(ひじか)け椅子(いす)に座って後ろから光を浴びて、窓の横に座っていて外から光が入ってくると、後光が射しているように見えて立派に見えるんですね。日曜日に庭で草をむしっているところなんかを見たら、本当にカクッとくいるかもしれません。そんなものかもしれません。
やはり、そういう“椅子”が、あるいは“机”が、その人らしく見せているわけです。定年退職になったら、急に気弱になります。
そのようなものなので、「自分はこういう役割を、今、与えられているんだ。やらなければならないんだ」と思うことによって強くなります。
(その人がどういう人であるかは、その人のなした「仕事」で決まる)
ルターという人は、ものすごく神経質で気の弱いタイプでした。繊細で、どちらかというと、精神分析をしたら“少し危ない世界”に入っていたかもしれない。そういう人ですけれども、ひとたび使命感に火がついたときに、あれほど強くなった。これは“奔流(ほんりゅう:激しい流れ)”ですね。一つの“奔流”のなかに乗ってきて、「もう引けない。もう退けない」という状況に自分を置くと、どうしようもないのです。
これは川下りと同じです。ライン下りと同じで、できたらなかを下りたくないけれども、いったん乗り出したら、もうしかたがないのです。こうなったら、やるしかないのです。やっているうちに、傍目に見ていたら、「ずいぶん勇ましいな。頑張っているな。滝壺があるのに突っ込んでいくな。平気だな」という感じは、やはりすると思います。本人は必至でやっているだけなのですが、他人から見たらそう見えるはずなのです。
どちらが正しいかは分からないのです。自分が思っているより、他人が見ているほうが正しいかもしれない。そのようなものなのかもしれないですね。私はそう思います。
ですから、他人様に見ていただく自分が、本当かもしれないのです。自分が自分を知らないで、他人が自分を知っているということはあります。
結局、その人がどういう人であるかということは、その人の「仕事」で決まるのです。その人のなしたことで、その人がどういうことをしたかで、その人はどういう人であるかが決まるのです。
ですから、やったことが、仕事が自分だと思うことです。自分が自己意識して「こういう人間だ」「気が弱いんだ」と思う自分が自分ではなくて、やった仕事が自分で、やった仕事が勇ましい仕事だったら勇ましい人であったのです。
英雄といわれる人だって、内心はどうだったか分からないけれども、勇ましい結果を残してきたら、やはり、それは英雄なのだと私は思うんですね。
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元に攻め込んで首を取ったというのをかっこいいと言うけれども、あれだって実際はどうであったか、それは分からないのです。信長はそのまま待っていたら、あと一日で殺されていたのです。向こうは三万人の大軍、自分は全部かき集めて五千人、使えるのは三千人しかいなかったのです。悠々と進んでこられたら、もうそのままで明日には死ぬのです。みな死ぬと思っていたので、一か八かで突っ込んだだけで勝ってしまったのかもしれない。
そうしたら不思議なもので、世間が「信長というのは大したものだ。やるやつだ」ということになると、何となく本当に強いのかなと思い始めます。やっているうちに、「また勝った。あれ?おかしいな」と思って勝っているうちに、だんだん英雄になってしまうということは実際にあるのです。
天上界の目から見たら、信長は負けることになっていたという説もあるのです。ある霊人はそう言っていました。今川義元が勝つことになっていた、負けてしまったので困ったと言っていました。
勝つことになっていたというか、今川義元のほうは天上界で、今、ちゃんと光明界に還っています。勝つことになっていたのに、あそこで負けてしまったというのです。以後は話がおかしくなって大変だったという話があるんですね。
そういうことだって、現実にはあるのです。今川が勝っていたらどうだったか。そのあとに、おそらく徳川が、やはり行ったでしょうけれども。
ですから、ちょっとそのへんは違うところが出てきた。本当は織田信長は負けるべきであったのかもしれないけれども、「窮鼠猫(きゅうそねこ)を噛(か)む」で頑張ったら“猫が死んじゃった”ということもあるわけです。
そういうことが歴史の現実にあるので、どうか、「やった仕事が、現われた現実が自分だ」と思うことです。さすれば。強い人間になれるはずです。
---owari---
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