ブラジル日系人の子弟が日本で最も驚いたのは、戦争に往(い)った若者たちの気持ちだった。
(「げんしゅくな気持ち」)
[げんしゅくな気持ち]・・・ナタリア・恵美・浅村(17歳)
2002年12月に、私は第13回使節団として、日本に行きました。あそこで、沖縄や広島でおこった戦争の事を見ました。原爆資料館や江田島や靖国神社で、いろんなお話を聞きました。
そして戦争の意味が深く分かりました。戦争がなかったら、人々はしななくてよかったのに。戦争というものはすごく苦しいものです。
けれど、私がもっとおどろいた事は、戦争にいった人達のすばらしい気持ちだった。あなた方は自分の国日本をまもるために、そして自分の家族の命をまもるために、自分の命をかけました。あなた達は敵にふくしゅうをする気持ちより、自分の国の誇りをまもるための「死ぬこと」をえらびましたね。私はそれは本当にげんしゅくな気持ちであると思います。
私は江田島でこんなメッセージを見ました。「正道一心」という書でした。だれかが弟のために自分の血で書いたものでした。女の子は自分のかみの毛で、「日本」と書きました。それは私の心にふかい感動をおこさせました。
皆様、戦争で日本はまけた。でも、あなた方の命はむだにはならなかった。だって、今、私達も、日本の人も幸せ一杯でしょう。だから、あなた方はなくなったけれど、その気持ちは、いろんな人達に大切なことを教えました。
あなた方のために、今、私は一生けんめい祈ります。そして、あなたの生命をもらって今生きているよ。
本当にありがとうございました。日本の人、靖国神社を大切にしてください。おねがいします。
なくなった人達に誇りをもって下さい。おねがいします。
(ブラジルからの青少年使節団)
ナタリアさんはブラジル・サンパウロ市にある松柏学園の生徒である。ここでは多くの日系人子弟が他国系の子供たちとともに日本語を学んでいる。1972年から二年に一度、この学校の生徒たち二、三十人が日本を訪れ、約40日をかけて沖縄から北海道まで廻っている。
送り出す親にとっては、地球を半周する飛行機代と40日もの宿泊費は相当な負担であるが、「自分のルーツに誇りを持ってほしい」「美しい日本を見てきてほしい」という日系人父兄の切なる願いが30年にもわたる使節団の派遣を支えてきた。
その行程の中で子供たちが特に深い印象を持つのは、靖国神社の遊就館や、海軍兵学校のあった広島湾・江田島の教育参考館で見る特攻隊員の遺書・遺品である。ナタリアさんの文章はそこで心を揺すぶられた経験を、一生懸命学んだ日本語で自ら書いたものである。
(「美しい心」)
生徒たちの文章をもう一つ、引用しておこう。訪日をひかえて、靖国神社へ行くことを楽しみにしている生徒の手紙である。
[美しい心をもって死んだ兵隊さん]・・・ハイザ・理恵・鈴川(16歳)
日本の若者は、日本国、日本人をまもるために、生命をあげました。とてもだいたんで、勇気のある人たちでした。そしてその若者は、「お父さん、お母さん、ぼくに会いたくなったら靖国神社に来て下さい。ぼくたちはいつもあそこにいますから」と言いました。
私は日本へ行ったら、かならず靖国神社にお参りに行きます。そして、「ありがとう。私たちのおじいちゃん、おばあちゃんの国をまもってくれて」と祈ります。
美しい心をもって死んだ兵たいさんたち、あなたたちは世界の英雄です。
(「今はすべての浮世のきずなを断ち切って天翔る」)
ナタリアさんが感動して「げんしゅくな気持ち」と呼び、ハイザさんが「美しい心」と言った心とは、どんなものだったのか。
学徒出陣して海軍飛行科予備学生となった中村輝美(てるみ)さんには妙子さんという19歳の新妻がいた。その妙子さんにあてた手紙が何通か残っている。中村さんが宮崎・都城へ転任する前に書き送った手紙はすでに遺書のようである。
妙さん、元気で。強く。幸多かれと祈る。
不思議な、因果な、そして淡い縁だつたね。然し中村輝美てふ男の心には強く焼きつけられてゐる。
私が行く所は「決戦部隊」 詳しくは書けないが、日本の総反攻の最先端に立って散る飛行隊。男子としての本懐はこれに過ぐるものなし。妙さんに泣かせ度くはないが・・・。(中略)
名古屋の駅で妙さんに肩を叩いて「元気を出しなさいよ」と云ったのは自分自身に云った言葉、何だか辛い気持ちだった。あんな気持ちは二度とないだらう。未練な男だね私は。
ただし今はすべての浮世のきずなを断ち切って天翔(あまかけ)る。私はそれが出来ると信じてゐる。妙さんも信じて下さい。未練はあったが私も男。それが出来ねば妙さんの夫として恥ずかしくないと云えないものね。(中略)
万一の場合 天皇陛下の万才を唱え奉り、その後の余裕があれば必ず妙さんに「さよなら」を告げるよ。
(「吾が愛す すべての人に」)
中村さんは昭和20年3月に鹿児島県鹿屋で特攻攻撃のための航空偵察の任務についたが、その様子を次のように書き送っている。
毎日を果てしなき大空に小鳥の如く風にもまれ、敵戦闘機の機銃丸に追はれ、そして追はれても追はれても、その間隙を狙って敵の全貌を明らかにし味方特攻隊を導く。全く空の地獄だ。無事に帰れるのが俺には不思議に考えられる位。そして明日の事は、否一瞬先の事すらも判らない運命にある。
その言葉通り中村さんは昭和20年5月31日早朝、悪天候の中を発進したが、午後2時45分から4時まで、3回に渡って「吾、戦闘機の追従を受く」と発信した後、消息を絶った。
中村さんが残した「天翔る日に」と題した長歌がある。その最後の部分のみ引用しよう。
「情に生く 男の子なりしを 蒼空に 天翔ける身の抱くべき ねがひぞかなし 吾が愛す すべての人にとことはの 幸あれかしと 今ぞ我れ 天翔けり行く」
中村さんの願いは、自分の愛するすべての人に永遠の幸あれ、という事だった。そこには自分の運命に対する恨み辛みも、また敵国に対する憎しみもない。ただひたすらに愛する者の幸せを願うという純粋な気持ちである。ナタリアさんやハイザさんが「げんしゅくな気持ち」「美しい心」と呼んだのは、このような心であろう。
---owari---
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