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山内一豊の大出世を支えた”あげまん女房”の機転

2018年03月29日 | 歴史

豊臣秀吉に四百石で仕えたのが始まり。その後、軍功に励んで出世を重ね、徳川家康の時に二十四万石の大名にまで登りつめた武将がいる。土佐藩主、山内一豊だ。彼のサクセスストーリーは*糟糠(そうこう)の妻、千代の存在なくしては成立しない。

 

一豊が窮地に陥ったり、右に行こうか、左に行こうかと悩んでいる時、千代は常に適切なアドバイスを与えてくれる最良のパートナーだった。その意味で、千代こそは秀吉の正室、ねねと並んで戦国期最高の“あげまん女房”と言えよう。

 

一豊が大躍進するきっかけとなった二つの出来事がある。一つ目は、あまりにも有名な「千代のへそくり」。戦前には教科書にも採用されていた話だ。

 

ときは1581年、織田信長は天皇に馬揃えをご覧にいれる準備を進めていた。自らが天下人たることを宣言する一大デモンストレーションを狙ったのだ。

 

この名誉な天覧の栄に浴する騎士の中に、一豊も選ばれていた。ところが、一豊は良馬を持っていない。たまたま市中の馬市で見かけた奥州馬の見事さに目を奪われたものの、とても貧乏侍にあがなえる値段ではなかった。

 

家に帰って、思わず女房にぐちをこぼす一豊。千代はそれを聞いて、黙って自分の部屋から鏡箱をさげて戻ると、箱の隠し底から黄金十枚を出して見せ、驚く一豊に、「嫁入りの時に養父から、家の一大事の時にこれを遣え、と言われ頂戴したお金です。これまで隠していたのは申し訳ございませんが、今が家の一大事と思いますので、どうぞこれを用立ててください」と言った。

 

一豊はその大金のお陰で、駿馬を買うことができたのは言うまでもない。そして、馬揃えの当日に信長から「良き馬である」と褒められ、一躍面目を施すのである。

 

二つ目の出来事は関ヶ原の合戦(16009月)直前に起こった。同年7月、家康は石田三成との戦いが避けられないものになってきたのを感じ取りつつ、会津遠征の途上にあった。一豊もその軍に加わっていた。家康はこの時まだ、「東西の合戦が行われたとして、一体だれとだれが自分の味方についてくれるのだろうか」と疑心暗鬼の状態だった。

 

そんな遠征の最中、一豊が家康の前に進み出て、こう言った。「たった今、大坂の妻より手紙が届きました。大坂の動きが書いてあろうと思います。どうぞご披見くだされ」。

 

見ると、文箱は封印したままだ。中を開くと、これまた未開封の封書が一通入っていた。一豊に断ってこれを開いた家康の顔色がみるみる変わった。三成が豊臣恩顧の緒将に出した、家康と戦うことを呼び掛ける文面だったからだ。

 

一豊の留守にこの封書をもらった千代は、したためられている内容を百も承知のうえで、封を切らないまま遠征に出ている夫に送り付け、家康に読ませるように仕組んだのである。

 

千代はわが夫・一豊が家康派につこうと決めていることを知っていた。そこで、三成の書状を未開封のまま夫が家康に手渡せば、その決意の堅さを何よりも雄弁にものがたることになると考えたのである。

 

家康は、千代と一豊の気配りに大いに感激した、この出来事が呼び水となって、東西どちらにつくか決めかねていた緒将も、家康方に傾くのである。

 

まさにこの瞬間、山内一豊の二十四万石が決定したと言ってよい。千代の機転がもたらした二十四万石であった。

 

 

*糟糠(そうこう)の妻:「貧しさを共にしてきた妻は、自分が富貴になっても大切にする」と言ったという故事に基づく。「糟糠」とは、酒かすと糠みそのことで、粗末な食事のたとえ。

 

---owari---

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